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三島神社のある場所は、毛利季光の屋敷跡の一画だと伝えられている。 毛利季光は、源頼朝に招かれ政所(公文所)の別当に任じられた大江広元の四男。 広元の所領のうち毛利荘を相続したことから「毛利」を名乗った。 1247年(宝治元年)、北条時頼と三浦泰村とが戦った宝治合戦では、季光は泰村の妹を妻としていたことから三浦方に付き、三浦一族とともに源頼朝の法華堂で自刃した。 しかし、季光の四男経光が生き残り、その子孫が、戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就を生んだ。 季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別。 |
大山祇命 ( おおやまつみのみこと) |
季光は「兄を見捨てる事は、武士のする事ではない」と妻に説得され三浦氏についたのだという。 |
三浦泰村ら三浦一族と毛利季光が自刃した法華堂は、1189年(文治5年)、源頼朝が奥州征伐の祈願所として、伊豆山権現の專光房良遷に命じて建立させた持仏堂だった。 1199年(建久10年)1月13日に亡くなった源頼朝は、持仏堂に葬られ、以後「法華堂」と呼ばれるようになる。 |
現在、源頼朝墓が建てられている場所に毛利季光が三浦一族とともに自刃したという源頼朝の法華堂があった。 |
源頼朝墓の東の山裾にある毛利季光の墓。 父大江広元と島津氏の祖島津忠久の墓と並んで置かれている。 |
季光の墓の下には、三浦一族の墓。 |
神奈川県厚木市下古沢659 小田急線「本厚木駅」駅からバス |
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