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『吾妻鏡』によると・・・ 1203年(建仁3年)9月2日朝、二代将軍源頼家は、比企能員を御所に呼び出し、北条時政追討の密議をしていたのだという。 このとき、頼家は、重病だったと伝えられ、8月27日には、すでに家督相続についての発表がされていた。 この密議を聞いていたのが頼家の母北条政子。 障子を隔てて聞いていたのだとか。 政子は、すぐにこのことを時政に通報。 驚いた時政は、大江広元を訪れ、 「先手をうって比企能員を征伐する」という考えでいることを明かすと、広元は、 「武士でない自分には兵法を論ずることはできませんので、能員を討つかどうかは、賢明なご判断を・・・」 と返答したのだという。 ※広元の言葉には「時政にすべて任せた」という意味があったのだろうか・・・? 時政の比企討伐は、この日のうちに決行される。 広元の言葉を聞いた時政は、すぐに席を立ち、荏柄天神社の前で、供をしていた天野遠景と仁田忠常にこう告げた。 「今日、比企能員を討伐するので、討手を差し向けていただきたい」と。 すると、天野遠景は、 「軍兵を差し向けるまでもありません。 御前にお召しになって成敗したとしても、あの老人に何ができるでしょう」 と答えたのだという。 様々な思いを巡らせた時政は、薬師如来像の供養にかこつけて能員を自邸に誘き出すこととする。 この像は、以前より造らせていたものだという。 時政の使者に対して能員は、 「さっそく出掛けましょう」 と返事をするが、 時政の招待に危険を感じた能員の子息や親類は、能員を制止したり、武装の兵を同行させるよう能員に訴えた。 しかし、能員は 「武装することは、かえって人の疑いを招く。 甲冑の兵士を連れていけば、鎌倉中のものが騒ぐことになる。 おそらく、仏像の開眼式を催されるかたわら、 この度の将軍の遺産分割についての話し合いがおこなわれるのであろう」 と言って聞き入れなかったのだという。 一方、時政は、鎧兜に身を固め、中野能成と市河行重に弓矢を携えて門に構えるよう指示。 天野遠景と仁田忠常は、腹巻(簡易な鎧)を着用し、西南の脇戸の内側に構えていた。 時政邸にやってきた能員は、総門を入って廊下の沓脱石に上がり、妻戸を通って北側へ行こうとしたが・・・ その時、遠景と忠常が、門の脇から出てきて能員の左右の手を掴み、山裾の竹林へ引きずり込んで殺害。 時政は、客間からこの様子を見ていたのだという。 能員暗殺の知らせを受けた一族や家来は、嫡男の一幡の館(小御所)に籠って防戦体制を整えたが、北条政子の命を受けた大軍が小御所を襲撃。 激戦の末、比企一族は滅亡した。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 |
比企一族の墓 (妙本寺) |
一幡の袖塚 (妙本寺) |
妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。 |
鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜 浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 仁田忠常の誅殺 |
比企能員を暗殺した天野遠景と仁田忠常は、流人源頼朝に仕え、頼朝の源氏再興の挙兵に従った伊豆国の武将。 |
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