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1203年(建仁3年)、伊豆国と駿河国で巻狩りを行った源頼家は、6月3日、駿河国の洞穴を仁田忠常に探索させた。 この話を聞いた古老は・・・ この穴は浅間大菩薩のお住まいである。 昔から『中を見てはいけない』と伝えられてきた。 今、将軍は、このようにその禁をお破りになった。 将軍家の御命運にとって咎(とが)がないはずがない。 おそろしや」 とささやいたのだとか・・・ |
6月10日 |
鎌倉に帰還。 |
6月30日 |
鶴岡八幡宮の神殿の棟の上にとまっていたキジバトが落下して死ぬ。 |
7月4日 |
鶴岡八幡宮の経所と回廊の屋根から三羽の鳩が喰い争いながら落ち、一羽が死んだ。 |
7月9日 |
鶴岡八幡宮の閼伽棚下に頭のとれた鳩が一羽死んでいた。 |
7月20日 |
頼家急病。 |
7月23日 |
頼家重体、占いの結果、神の祟りだという。 |
8月7日 |
大変苦しそうな容態。 |
8月15日 |
鶴岡八幡宮の放生会欠席。 |
8月27日 |
容態が危なくなったため、関西の三十八か国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に、関東二十八か国の地頭職と総守護職を嫡男の一幡に相続させることが決められた。 このとき、一幡の祖父・比企能員は、弟の千幡への相続分に憤慨し、将軍の舅として叛逆を企てたのだという。 |
8月29日 |
容態が悪化。 鶴岡八幡宮では八万四千基の泥塔の供養が行われた。 |
9月1日 |
祈祷や治療の効果なく、鎌倉中が大騒ぎとなる。 在国していた御家人が次々と鎌倉に参着。 |
9月2日 |
北条時政が比企能員を暗殺、実行者は仁田忠常と天野蓮景(遠景)。 北条政子の命により北条義時らが比企邸を攻めて比企氏を滅亡させた。 嫡子一幡も焼死(比企の乱)。 |
9月5日 |
頼家の病状が快復。 北条時政を討つよう和田義盛と仁田忠常に命ずるが、義盛はそのことを時政に報告。 |
9月6日 |
仁田忠常が加藤景廉に殺される。 |
9月7日 |
頼家出家。 |
9月27日 |
頼家が伊豆修禅寺に流され、翌年7月18日に暗殺された。 |
源頼家が仁田忠常に探索させたのは、富士の人穴だったのだと伝えられている。 参考までに・・・ 戦国武将・織田信長も甲州征伐の帰りに人穴を訪れているのだという。 信長は、それから約1か月半後に本能寺で横死している(本能寺の変)。 |
富士の人穴探検〜源頼家と仁田忠常〜 富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜 |
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