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人穴浅間神社の境内にある人穴富士講遺跡は、富士講の開祖角行東覚が入定したという聖地。 浅間神社の境内には、信者が建立した供養費、顕彰碑、登拝記念碑が建ち並んでいる。 |
富士講の開祖角行東覚(藤原武邦)は、1552年(永禄2年)、故郷の九州長崎を旅立ち、岩手県盤井郡の「脱骨の窟」(だっこつのいわや)で修行した後、神のお告げによって富士の「人穴」に入って一千日の爪立ちを行ったという。 左の写真は、北口本宮冨士浅間神社に残されている立行石。 角行は1646年(正保3年)6月3日、人穴で亡くなった(106歳)。 富士登頂は実に126回に及んだといわれ、角行の死後、人穴は富士講の浄土と呼ばれた。 |
白糸の滝のお鬢水は長谷川角行が禊を行った水と伝えられている。 |
『吾妻鏡』・『北条九代記』によると、1203年(建仁3年)6月3日、源頼家は巻狩りのため駿河国に入った。 そこで見たものは山麓の大きな穴。 頼家は重宝の剣を仁田忠常に与えて探索させたのだという。 |
富士の人穴探検〜源頼家と仁田忠常〜 浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜 |
源頼家に人穴探索を命じられた仁田忠常は、奥へと進むうちに江の島の岩屋に辿り着いたという伝承もある。 |
人穴探索を行わせた頼家は6月10日に鎌倉に帰るが、翌月には病に倒れた。 9月には、北条時政・北条政子によって出家させられ、伊豆修禅寺に幽閉された(参考:比企の乱)。 そして、翌年7月18日、修禅寺で暗殺されている。 人穴探索をした仁田忠常は、比企の乱で加藤景廉に謀殺されている。 |
浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜 |
戦国武将・織田信長も甲州征伐の帰りに人穴を訪れているのだという。 信長は、それから約1か月半後に本能寺で横死している(本能寺の変)。 |
富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜 |
静岡県富士宮市人穴206−1 JR身延線富士宮駅より |
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