富士山見物をしながら 帰還した織田信長 |
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1582年(天正10年)、甲州征伐を終えた織田信長は、嫡男の信忠を諏訪に残して、富士遊覧を楽しみながら駿河・遠江をまわって安土城へ帰ることに。 4月2日、諏訪を出発。 台ヶ原宿に泊まり、翌日、武田勝頼の新府城を見ながら甲府に到着。 武田信玄の躑躅ヶ崎館に信忠が建てた仮御殿に滞在。 この間、信忠は信玄の菩提寺・恵林寺を焼き払っている(恵林寺焼き討ち)。 4月10日、躑躅ヶ崎館を出発した信長は、甲斐と駿河を結ぶ中道往還を使用。 案内役は徳川家康。 4月11日には本栖湖に到達。 4月12日、朝霧高原・人穴・白糸の滝・井出館などを訪れ、富士山本宮浅間大社に至っている。 案内役の家康は、信長の行く先々に休憩するための陣所を建設し、将兵たちの小屋も建て、豪華な食事を用意したのだという。 |
1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りを催した源頼朝も見た白糸の滝。 「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」(頼朝) |
巻狩りで源頼朝が仮宿としたのが井出館なのだと伝えられている。 |
富士山本宮浅間大社の流鏑馬は、源頼朝が巻狩りの際に奉納したことに始まるのだという・・・ |
信長が訪れた時、富士山本宮浅間大社は、北条氏政によって焼かれてしまっていたが、家康は要害の地にある浅間大社に陣所を建設。 信長は、金銀をちりばめた豪華な飾り付けの宿所に1泊したのだという。 |
4月13日、富士山本宮浅間大社を発った信長は、江尻城・田中城・掛川城を経て、4月16日には浜松城に入城。 浜松からは船で吉田城に至り、清州城・岐阜城を経て4月21日に安土城へ戻った。 |
翌5月15日、徳川家康は甲州征伐で駿河国を加増された礼のため、穴山梅雪とともに安土城を訪問。 それから2週間後の6月2日、信長は明智光秀の謀反により本能寺で横死している(本能寺の変)。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
信長は、甲州征伐後、甲斐善光寺の善光寺如来を美濃国の岐阜城下に移している。 そのため、私利で善光寺如来を持ち出すと祟りがあると噂されたのだという。 そして、信長は安土城に帰還する際、富士の人穴を訪れているが・・・ 人穴は、源頼朝の子頼家が仁田忠常に探索をさせて祟りにあったという伝説の遺跡。 信長も探索させたりしたのかも・・・ |
織田信長は善光寺如来の祟られた?〜本能寺の変〜 浅間大菩薩に祟られた? 〜源頼家と仁田忠常〜 |
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