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富士山本宮浅間大社は、全国に1300社あまりあるという浅間神社の総本社。 駿河国一之宮。 第七代孝霊天皇のときの富士山の大噴火によって、人々が離散し長く荒れ果てた状態となっていたのを憂いた第十一代垂仁天皇が、噴火を鎮めるため山麓の山足に浅間大神を祀ったのを起源とする。 景行天皇の時代には、日本武尊が東夷征討の際に、駿河国で賊徒の野火に遭い、富士浅間大神に祈願して難を逃れたことから山宮に浅間大神を祀った。 その後の806年(大同元年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が山宮から大宮(現在地)へ遷宮したと伝えられている。 富士山本宮浅間大社は、世界文化遺産「富士山」の構成資産。 |
木花之佐久夜毘売命 (このはなのさくやひめのみこと) 別称:浅間大神 (あさまのおおかみ) |
※ | 垂仁天皇が祀った山足とは、特定の地を示すものではなく、適当な場所を選んで祭祀を行ったことを示すものだ考えられている。 |
※ | 日本武尊が祀った山宮は、現在地より北方6qの場所。 |
※ | 祭神の木花之佐久夜毘売命の父は大山祗神。 『北条九代記』には、三嶋大社の祭神「大山祗神」(おおやまつみのかみ)の娘と紹介されている。 |
コノハナノサクヤヒメの神話 北条義時の遷宮の儀 |
楼門 (県重文) |
本殿 (国重文) |
浅間大社に伝えられる「流鏑馬」は、1193年(建久4年)、源頼朝が富士裾野の巻狩りを催した際に奉納したことを起源とし、頼朝による社領の寄進があったと伝えられている。 |
5月5日の流鏑馬祭では、小笠原流斎藤支教場の方々による流鏑馬が奉納される。 |
『吾妻鏡』によれば、1223年(貞応2年)6月20日、北条義時は「遷宮の儀」を執り行っている。 この年、義時は北口本宮富士浅間神社の東宮本殿を創建している。 北条義時の遷宮の儀 |
1569年(永禄12年)、駿河国へ攻め入った武田信玄は、今川軍を破り駿河国を手中にした。 このときに植えられたのが本殿前の「枝垂れ桜」だという(現在の桜は二代目)。 翌1570年(元亀元年)には、北条氏康との戦いを前に浅間大社に参詣し、願状を奉納した。 その願状は現在も残されている。 子の勝頼は、1578年(天正6年)に遷宮を行っている。 |
1604年(慶長9年)、徳川家康は関ヶ原の戦いの勝利に感謝して社殿を造営し、境内を整備した。 現在も本殿・拝殿・楼門が残されている。 また、1609年(慶長14年)には、駿河国のものか甲斐国のものかという争いの絶えなかった富士山頂の所有権を浅間大社のものとするという決定を下した。 明治維新後、富士山頂の所有は国へと移されたが、1974年(昭和49年)年4月9日、最高裁は、富士山8合目以上を大社の所有という判決を下している。 |
1582年(天正10年)、甲州征伐を終えた織田信長が徳川家康の案内で訪れている。 |
富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜 |
駿州赤心隊は、浅間大社の神職富士氏の四十四代当主重本を隊長とする幕末の官軍組織。 |
大鳥居 |
第二大鳥居 |
本宮:静岡県富士宮市宮町1−1 奥宮:富士山頂上 JR身延線 富士宮駅から徒歩約10分 |
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