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武田神社は、武田信玄を祭神とする神社。 武田氏の居館だった「躑躅ヶ崎館」(つつじがさきやかた)の跡地に建てられている。 1919年(大正8年)に社殿が竣工し、4月12日の信玄の命日に初の例祭が執り行われた。 境内の宝物殿には、太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇、武田二十四将図などの品々が収められている。 現在は、4月12日前の土日に「信玄公祭り」が開催されている。 |
「姫の井戸」は、武田信玄の娘が産湯に使用した井戸と伝えられるもの。 別名「茶釜の井戸」とも呼ばれ、井戸より発見された茶釜等の品々が宝物殿に展示されている。 この茶釜は武田勝頼が京よりの客をもてなすために使用したとも伝えられている。 |
武田氏館は、躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、1519年(永正16年)に信玄の父武田信虎が石和館から移ってきたことに始まる。 信虎は、戦国大名・武田氏の基盤を築いた武将。 |
躑躅ヶ崎館は、信虎・晴信(信玄)・勝頼三代の居館として使われ、城下には有力家臣が住み、市場が設けられるなど、館一帯は中世甲府の中心地として栄えた。 |
八幡神社は、信虎が石和館から移る際に石和八幡宮を勧請した社。 もとは躑躅ヶ崎館の隣接地にあったが、武田氏滅亡後に甲府城が築かれたことに伴ない、宮前の地に遷座されている。 |
石和八幡宮は、武田氏二代当主の武田信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、国衙八幡宮として崇敬した社。 |
積翠寺は、躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた要害山城の麓にある寺。 武田神社の北北東にあって、武田信玄の産湯の井戸が残されている。 |
1573年(元亀4年)に死去した信玄は、躑躅ヶ崎館の麓の土屋昌続邸に葬られ、3年後の1576年(天正4年)4月16日、甲州市の恵林寺に葬られたのだという。 |
信玄の父信虎は、躑躅ヶ崎館を築いて甲府を開き、甲斐国を統一した武将。 1541年(天文10年)、信玄によって駿河国の今川義元もとに追放されて出家。 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで義元が討死すると、上洛して将軍・足利義輝に奉公したのだという。 1574年(天正2年)、六男・武田信廉の居城・高遠城で死去。 |
大泉寺は信虎が創建した寺で、信玄の誕生伝説が残されている。 |
1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、1581年(天正9年)、織田・徳川連合軍を迎え撃つため、躑躅ヶ崎館から新府城に移ったが・・・ 翌年、甲州征伐が始まると、新府城を放棄して天目山麓の田野で滅亡した。 景徳院は、勝頼終焉の地に徳川家康が建立させた寺。 |
1581年(天正9年)、勝頼は躑躅ヶ崎館から自らが築いた新府城に本拠を移した。 未完の城だったといわれているが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。 |
京都の一条通の辻で晒された勝頼の首は、信玄や勝頼が帰依していた妙心寺の南化玄興がもらい受けて妙心寺に葬ったのだという。 法泉寺には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられる。 首級牛蒡の伝説 |
甲府五山は、信玄が躑躅ヶ崎館の城下に置いた臨済宗妙心寺派の寺院。 |
長禅寺 |
能成寺 |
長禅寺は、信玄の母・大井夫人の菩提寺。 能成寺は、武田氏十五代当主・武田信守の菩提寺。 |
東光寺 |
円光院 |
東光寺は、信玄の嫡男・義信の菩提寺。 円光院は、信玄の正室・三条夫人の菩提寺。 |
武田氏三代の城だった躑躅ヶ崎館と要害山城は、甲州征伐で武田氏が滅亡し、天正壬午の乱後、甲斐国が徳川氏の領地になると・・・ 躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営されて家康の家臣・平岩親吉が入城し、要害山城にも城番が配置された。 家康が関東移封となった後も豊臣氏の家臣・加藤光泰によって修築されていたが、関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると廃城となった。 |
山梨県甲府市古府中町2611 JR中央本線甲府駅北口より山梨交通バス「武田神社」下車 |
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