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甲府は、1519年(永正16年)、武田氏十八代当主・武田信虎が石和にあった武田氏館を甲府に移したことで、躑躅ヶ崎館の城下町として発展。 躑躅ヶ崎館は、信虎・信玄・勝頼の三代の本拠となったが・・・ 1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した勝頼は、領国立て直しのため、1581年(天正9年)に新府城を築いて本拠を移転。 しかし、翌年の甲州征伐で武田氏は滅亡した。 その後、甲斐国は織田信長が支配したが、信長は間もなく京都の本能寺で横死(本能寺の変)。 織田の遺領をめぐって天正壬午の乱が起こるが、乱後、甲斐国は徳川家康が領することとなる。 甲府城は、1583年(天正11年)に家康が家臣の平岩親吉に命じて築き始めたともいわれるが定かではない。 築城が本格化したのは、1590年(天正18年)の小田原征伐後、家康が関東移封になってからのこと。 小田原征伐後、甲斐国は豊臣秀勝が領することとなり、家康に対抗するための重要拠点として築城が開始された。 翌年、秀勝が美濃国岐阜へ移封になると、加藤光泰が入城し、本丸をはじめとする城の中心部分が竣工。 1593年(文禄2年)に光泰が死去すると、浅野長政が入城して完成させたものと考えられている。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、甲斐国は再び徳川の支配下となり、1603年(慶長8年)には、家康の九男・徳川義直が城主となる。 以後、幕末まで徳川の城として存続した。 1873年(明治6年) 廃城。 |
甲府城の別名は舞鶴城(まいづるじょう・ぶかくじょう)。 現在は舞鶴城公園として整備されている。 |
躑躅ヶ崎館は甲斐国の政庁(府中)として機能し、背後に詰城の要害城があって防御には適していたが、城下町を拡大するには限界があった。 そのため、勝頼は新府城を築いたのだといわれる。 |
武田神社は、武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)が本拠とした躑躅ヶ崎館跡に建てられた神社。 |
積翠寺は、躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた要害山城の麓にあって信玄誕生の寺とされる。 天正壬午の乱後、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営されて家康の家臣・平岩親吉が入城し、要害山城にも城番が配置された。 家康が関東移封となった後も加藤光泰によって修築されていたが、関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると廃城となった。 |
恵林寺は武田武田信玄の菩提寺。 1704年(宝永元年)、甲府城主となった柳沢吉保と妻の墓塔がある。 |
東光寺は、武田信玄によって定められた甲府五山の一つ。 柳沢吉里は、柳沢吉保の嫡男。 1710年(宝永7年)、甲府城に入城。 それまでの甲府藩主は、国元で直接藩政に携わることはなかったが、この時はじめて藩主が国元に入った。 東光寺には柳沢家の墓所がある。 |
八幡神社は、武田信虎が躑躅ヶ崎館を築いた際、石和八幡宮(笛吹市)を勧請したことに始まる神社。 甲府城が築かれると鎮守社として崇められた。 |
※ | 石和八幡宮は、武田氏二代当主の武田信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、国衙八幡宮として崇敬した社。 |
山梨県甲府市丸の内1−5−4 JR東日本中央本線・JR東海身延線「甲府駅」南口から徒歩約5分 |
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