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石和八幡宮は、77年(景行天皇27年)、甲斐国府の守護神として祀られた物部神社を始まりとする。 1192年(建久3年)、甲斐国守護となり石和荘に館を構えた武田信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して国衙八幡宮と改められた。 「うつしては 同じ宮居の 神垣に 汲みてあふかむ 美たらしの水」 この歌は、鶴岡八幡宮を勧請した際に、源頼朝が神領500貫の寄進とともに奉納したものと伝えられている。 のちに石和八幡宮と呼ばれるようになり、武田家累代の氏神として、弓馬術の聖地として信仰された。 武田信虎(武田信玄の父)が石和館(川田館)から躑躅ヶ崎館に本拠を移すまで、源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだと伝えられている。 |
応神天皇 比売大神 神功皇后 天足彦国押人命 (アマタラシヒコクニオシヒトノミコト) 稚城瓊入彦命 (ワカキニイリヒコノミコト) |
社殿及び隋神門は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての建築されたものだったが、2006年(平成18年)に隋神門を残して焼失。 現在の本殿・幣殿・拝殿は、2009年(平成21年)に再建された。 |
1519年(永正16年)、石和館(川田館)から躑躅ヶ崎館に移り甲府を開いた武田信虎は、甲府に石和八幡宮を勧請し、甲斐国総社として崇敬した。 |
武田神社は、躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた武田信玄を祀る社。 |
八幡神社は、石和八幡宮を勧請して躑躅ヶ崎館の隣接地に遷座された古八幡社を始まりとする。 武田氏が滅亡して甲府城が築かれると宮前の地に遷座された。 |
弓馬の礼は、896年(寛平8年)、宇多天皇に命じられた源能有が制定。 能有は、これを貞純親王に伝えた。 そして、貞純親王の子で清和源氏の始祖六孫王経基に伝承され、清和源氏が相伝するようになったといわれている。 経基→満仲→頼信→頼義→義家と相伝された弓馬の技術は、義家の弟義光によって甲斐の武田家・小笠原家に伝えられた。 |
武田流流鏑馬は、武田信光を祖とする安芸武田家に伝えられた弓馬術。 信光は甲斐源氏5代当主。 父は武田氏初代の信義。 源頼朝に仕えて活躍し、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆とともに弓馬四天王と呼ばれた。 『吾妻鏡』によると 信光は、鶴岡八幡宮の流鏑馬の起源となる1187年(文治3年)8月15日の放生会で射手に選ばれている。 1193年(建久4年)8月16日の流鏑馬では、弓馬四天王がそろって射手に選ばれた。 頼朝亡き後も活躍し、1221年(承久3年)の承久の乱では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられている。 |
※ | 安芸国守護に任じられた時期には諸説ある。 |
弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清〜 |
鶴岡八幡宮の例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。 長清は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。 母は杉本義宗の娘(和田義盛の娘という説も。)。 妻は上総広常の娘。 甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜った。 |
武田八幡宮は、武田信光の父信義が元服したという社。 |
武田信光は、北条政子の時代に伊豆を給わったのだという。 伊豆の国市の信光寺には信光の宝篋印塔がある。 |
円光院 |
能成寺 |
甲府五山は、武田信玄が甲斐国の古刹を府中(甲府)に集めて臨済宗妙心寺派の寺院に改め、鎌倉五山・京都五山にならって制定した。 円光院は、信玄の継室・三条夫人の菩提寺。 能成寺は、武田氏十五代当主・武田信守の菩提寺。 |
山梨県笛吹市石和町市部1094 中央本線石和温泉駅より徒歩約10分 |
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