鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉の桜 鎌倉のアジサイ



武田流・流鏑馬
鶴岡八幡宮

編集:yoritomo-japan.com








武田流・流鏑馬


 「武田流」の流鏑馬は、武田信光を祖とする安芸武田氏に伝えられ、その後、若狭武田氏、細川家、竹原家と継承されてきた。

 武田氏は新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の嫡流。

 五代信光は、小笠原長清(甲斐源氏)、海野幸氏望月重隆とともに「弓馬四天王」と呼ばれた弓の名手。



武田流・流鏑馬




~甲斐源氏に伝えられた弓馬の礼~


清和天皇

貞純王

経基

満仲

頼信

頼義

新羅三郎義光
(甲斐源氏祖)

義清

清光

武田信義

武田信光


 896年(寛平8年)、源能有によって制定された「弓馬の礼」。

 その技術は、清和源氏の祖経基が伝承し、満仲→頼信→頼義義家と相伝され、義家の弟義光から武田家小笠原家に伝えられた。





武田流・天長地久の儀
リンクボタン天長地久の儀

 鶴岡八幡宮で奉仕される武田流流鏑馬では・・・

 舞殿で「鏑矢奉献・願文奏上の儀」が執り行われた後、「天下泰平、五穀豊穣、国民安堵」を祈念する「天長地久の儀」が執り行われる。

 そして馬場入り。



武田流・流鏑馬
リンクボタン流鏑馬馬場

 流鏑馬馬場には埒(らち・柵)が結ばれる。

 「埒が明かない」という言葉があるが、これは京都三大祭のひとつ賀茂祭(葵祭)に先だって行われる上賀茂神社の競馬会から生まれた言葉なのだとか・・・


リンクボタン埒が明く・埒が明かない~上賀茂神社の競馬会と埒~





武田流・流鏑馬
素馳
(すばせ)

 馬場では、まず的を射らず全力疾走させる「素馳」(すばせ)が行われ、足慣らしをした後、決められた回数の「奉射」(ほうしゃ)が繰り返される。

 的は「式の的」と「板小的」。

 的の後ろには四季の花が添えられる。



武田流・流鏑馬
奉射
(ほうしゃ)


武田流・的
式の的

武田流・的
板小的


リンクボタン動画・板小的(ユーチューブ)









武田流・流鏑馬
競射
(きょうしゃ)

「競射」は「奉射」を行った射手の中から成績の良かった者が選ばれて行われる。


武田流・的

 「競射」の的は「土器三寸の的」。

武田流・的

 土器を二枚を合わせて、中に五色の切り紙を入れて張り合わせたもので、 命中すると土器が砕け花吹雪のようになる。




武田流・流鏑馬


リンクボタン動画・土器三寸の的(ユーチューブ)


 「競射」を終えると、最多的中者が式の的をもって奉行の前に座し、奉行は扇を開いて骨の間から検分する(凱陣の儀)。

 その後、太鼓を三打、「エイ・エイ・エイ オーッ」を唱和。

 この儀式には、邪悪退治の首実検の意味があるのだという。




リンクボタン流鏑馬スケジュール





武田流弓馬道教場
武田流弓馬道教場
(鎌倉:扇ガ谷)





リンクボタン弓馬四天王
(小笠原長清・武田信光・
海野幸氏・望月重隆)

リンクボタン西行と流鏑馬
(1186年(文治2年))

リンクボタン流鏑馬と熊谷直実の逸話
(1187年(文治3年))

リンクボタン流鏑馬と諏訪盛澄の逸話
(1187年(文治3年))

リンクボタン流鏑馬と河村義秀の逸話
(1190年(建久元年))

リンクボタン頼朝は弓矢の達人だった・・・

リンクボタン義時は弓馬の達人だった・・・





~弓馬術の聖地~

石和八幡宮
リンクボタン石和八幡宮
(笛吹市)

 石和八幡宮は、武田信光鶴岡八幡宮を勧請した社。

 源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだという。





~流鏑馬発祥の地~

城南宮
リンクボタン城南宮
(京都)

 城南宮は、流鏑馬発祥の地として知られる。

 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬のためと称して兵を集め、北条義時追討の院宣を発した(承久の乱)。



鎌倉殿の13人





鎌倉まつり
リンクボタン鎌倉まつり
小笠原流・流鏑馬
リンクボタン流鏑馬神事

 武田流流鏑馬は、4月の鎌倉まつりの最終日に鶴岡八幡宮で奉納されてきましたが・・・

 開催については鎌倉まつり主催者の鎌倉市観光協会にご確認ください。




歴史めぐり源頼朝










鎌倉の行事・祭


江の島流鏑馬武者行列


GW鎌倉


6月は鎌倉でアジサイ
鎌倉あじさいめぐり

開花・見頃・イベントの情報
鎌倉あじさい情報


yoritomo-japan 鎌倉
(鎌倉情報トップ)


紫式部 紫式部と越前国


鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


鎌倉の桜情報 鎌倉アジサイめぐり
鎌倉の紅葉 鎌倉の梅