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1186年(文治2年)、『山家集』を編んだことで知られている歌人・西行が、東大寺再建の勧進のため奥州平泉へ赴く途中、鎌倉に立ち寄った。 西行は、藤原秀郷の子孫で、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていたが、出家して西行と称していた。 源頼朝は、鎌倉を訪れた西行に面会し、弓馬のことを聞き、翌年の放生会で流鏑馬を奉納したのだと伝えられている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1186年(文治2年)8月15日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。 梶原景季に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。 鶴岡八幡宮奉幣の後、西行を御所に招き入れた頼朝は、和歌や弓馬のことについて尋ねますが・・・ 西行は・・・ 「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。 詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません」 と答えたといいます。 それでも、頼朝が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。 頼朝は、藤原俊兼にその口述を記録させたそうです。 翌日の正午ごろ、西行は頼朝の御所を辞します。 頼朝は、このとき、銀で作られた猫を西行に贈りますが、西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具として与えてしまいました。 ![]() |
西行は平泉を二度訪れているのだという。 中尊寺の東物見台には西行の歌碑が建てられている。 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、西行が源頼朝に弓馬について語ったちょうど1年後の1187年(文治3年)8月15日の放生会で奉納されたのが起源だと伝えられています。 |
鶴岡八幡宮の9月の例大祭では小笠原流流鏑馬が奉仕されます。 4月の鎌倉まつりでは武田流流鏑馬が奉仕されてきましたが、開催の有無については鎌倉市観光協会にご確認ください。 |
![]() (藤沢市) |
![]() (鎌倉十橋) |
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