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中尊寺(ちゅうそんじ)は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。 山号は関山(かんざん) 1105年(長治2年)、奥州藤原氏の祖・藤原清衡は、前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養する仏国土建設のため、境内に堂塔の造営を開始。 最初に釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」が建立され、次いで高さ15メートルにも及んだという大長寿院(二階堂)が建立された。 1124年(天治元年)には、清衡の廟堂としての金色堂が建立され、100年にわたる藤原氏の栄華の基礎が築かれた。 1189年(文治5年)、奥州を攻めた折に大長寿院を見た源頼朝は、それを模して鎌倉に永福寺を創建。 奥州藤原氏の滅亡後、中尊寺をはじめとする寺々について頼朝は、その維持についての命令書を出している。 1210年(承元4年)には、寺塔が年月を経て崩壊し、年貢が途絶え、寺僧が嘆いていることから、大江広元が奉行となって元のように年貢を送るよう、寺領の地頭に命令を下している。 その後も鎌倉幕府は、平泉の寺々の修理を地頭に命じていたが、中尊寺は、1337年(建武4年)に金色堂を残してほぼ全焼。 戦国時代に入るとますます荒廃が進むが、江戸時代には平泉が仙台藩領となり、伊達氏により堂宇の補修・建立が行われ、寛永寺の末寺にもなった。 昭和になると金色堂が国宝に指定され、3000点以上の宝物が国宝・重要文化財に指定された。 2011年(平成23年)には、「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。 仏国土とは、仏の教えによる平和な理想社会のこと。 |
※ | 円仁は第三世天台座主になった高僧で、開山したり再興した寺院は、比叡山延暦寺の横川、浅草寺、江島神社中津宮など500以上になる。 中尊寺が開かれた850年(嘉祥3年)には毛越寺も開いている。 |
本堂 (中尊寺の根本道場) |
金色堂 (皆金色の阿弥陀堂) |
経蔵 |
金色堂旧覆堂 |
白山神社・能舞台 (中尊寺の北方鎮守) |
大長寿院 (かつての二階大堂) |
釈迦堂 |
鐘楼 (盤渉調の梵鐘) |
弁慶の墓 (月見坂入口) |
表参道・月見坂 (八幡堂・弁慶堂) |
八幡堂 |
弁慶堂 |
西行歌碑 |
讃衡蔵 (中尊寺の宝物収蔵庫) |
大池跡 (清衡建立の大寺院跡) |
『吾妻鏡』によると、清衡は、延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺など国内の寺から、中国の天台山まで、寺毎に千僧供養を行った。 (※千僧供養とは、千人の僧を招いて食事を提供し、法会を営むこと。) そして、死に臨んでは、極楽往生を願う「逆修」を始め、百日目に当たる日に、病気でもないのに、合唱し、念仏と唱えながら、眠るが如く眼を閉じたという。 |
1689年(元禄2年)5月13日、奥州平泉を訪れた松尾芭蕉は、まず、源義経の衣川館があった丘に上り、「夏草や兵共が夢の跡」と詠み、その後、中尊寺の金色堂に訪れ、「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだ。 |
『吾妻鏡』によると、中尊寺は藤原清衡が奥六郡の管理を初めて最初に建てられた寺。 |
清衡は白河の関(福島県白河市)から外の浜(青森市)までの道に一町(約109m)ごとに、面に金色の阿弥陀像が描かれた笠塔婆を建て、その中央を計り、その山の上に塔を建てた。 これが中尊寺の始まりだという。 寺院の中央には多宝寺があって、釈迦如来と多宝如来が安置されていた。 そして、塔と多宝寺の中間に道を通して関所を置き、旅人の往来の道としたのだという。 |
『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)9月17日、中原親能と比企朝宗から清衡・基衡・秀衡の三代が建立した堂塔の説明を受けた源頼朝は、平泉の寺院の領地は先例のとおり寄付することとし、たとえ堂塔がなくなってしまっている土地であっても地頭が占領することを禁ずることを命じた。 その旨は、円隆寺の南大門に貼り紙されたのだという。 |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 |
2019年(平成31年)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された中尊寺ハス。 源頼朝が中尊寺・毛越寺・無量光院を模して建てたと伝えられる永福寺の跡に置かれている。 |
岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202 JR平泉駅から徒歩25分程度 |
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