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『吾妻鏡』は毛越寺について以下のように伝えている。 堂塔は40余、禅坊は500余。 基衡が、これを建立した。 |
金堂は円隆寺といい、金銀を沢山用いて、紫檀や赤木などを使用し、多くの宝物で彩られ、雲慶作の丈六薬師如来像と十二神将像が安置されている。 玉眼入りの仏像としては最初の例。 |
講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵などもある。 額は関白藤原忠道の筆、和歌の色紙は藤原教長。 吉祥堂の本尊は、洛陽の補陀洛寺の本尊を模したもの。 その像は生身で霊力をもった観音像であったことから、さらに丈六の観音像を造って胎内に納めた。 千手堂には、金銀をちりばめた木像二十八部衆を安置。 |
嘉勝寺は、基衡が完成を見ずに入滅したので、秀衡が完成させた。 本尊は丈六の薬師如来で、四方の壁と三面の扉には法華経第28巻の内容が彩りよく描かれている。 |
観自在王院(阿弥陀堂)は、基衡の妻(安陪宗任の娘)の建立。 四方の壁には京の霊場名所を描き、仏壇は銀塗り、周囲の手すりには金が施されている。 小阿弥陀堂も基衡の妻の建立で、衾の和歌の色紙は藤原教長が書いたもの。 |
基衡は本尊造立を雲慶に依頼。 雲慶が上中下のランクを伝えると、中を注文し、仏所へその費用を運ばせた。 それは、円金百両(約500万円)・百羽分の鷲の羽根・アザラシの皮約六十枚・安達絹千疋・希婦細布二千反・糠部の駿馬五十頭・白布三千反・信夫毛地摺千反など。 その他、山や海の珎物を副えた。 製作期間の三年間、都と平泉を行き来する役夫と荷駄が東山道や東海道で絶えることがなかった。 また、別に生絹を船三艘に積んで送ったところ、雲慶は飛び上がって喜び、「大変喜ばしいことですが、練絹が大切ですね」と冗談を言ったのだとか・・・ それを聞いた基衡は、すぐに練絹を三艘の船に積んで送ったのだという・・・ このような話を聞きつけて仏像を拝んだ鳥羽上皇は、すばらしいものなので都から出してはならないと宣下。 気落ちした基衡は、持仏堂に籠り、七日間、飲食を断って祈った。 そして、関白藤原忠道に嘆願。 忠道が上皇の機嫌を伺いながら勅許を得てくれたことで、仏像を平泉に安置することができたのだという。 雲慶が、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した奈良仏師・運慶かどうかは定かではない(金堂建立の時期と運慶の活躍した時期が合致しない。)。 |
かつて鎌倉にあった永福寺は、中尊寺、毛越寺、無量光院などを模した寺院だったのだという。 本堂は中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模した建物であったことから「二階堂」と呼ばれ、今も地名として残っている。 |
北条時政が創建した伊豆の願成就院の伽藍は、毛越寺を模した構成だったのだという。 |
毛越寺は奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡の時代の寺院跡。 2011年(平成23年)、「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」として世界文化遺産に登録されている。 |
岩手県平泉町字大沢58 JR平泉駅から徒歩7分程度 |
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