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観自在王院は、毛越寺の東に接して奥州藤原氏二代基衡の妻(安倍宗任の娘)が建てた寺院。 大小2つの阿弥陀堂を配し極楽浄土を表していたという庭園は、1189年(文治5年)の源頼朝の奥州征伐以後は水田となっていたが、1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)にかけて復元された。 「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。 |
『吾妻鏡』によれば、 観自在王院(阿弥陀堂)は、基衡の妻(安陪宗任の娘)の建立で、四方の壁には京の霊場名所を描き、仏壇は銀塗り、周囲の手すりは金が施されていた。 小阿弥陀堂も基衡の妻の建立で、衾には参議・藤原教長が書いた和歌の色紙が貼られていたという。 |
南北110m、東西105m、総面積9000u。 池跡は長く水田となっていた。 |
中島では、1350年(貞和6年)、1351年(観応2年)の銘の板碑などが出土。 また、近世まで1355年(文和4年)の銘の鉄製宝塔が中央に置かれていた。 この宝塔は塔身と基台のみとなり、現在は毛越寺宝物館に保管されている。 |
大小18個の石が組まれ、『作庭記』にいう「伝い落ち」という姿を表している。 |
『吾妻鏡』によれば、 観自在王院の南大門前の南北の道には、東西数十町にわたって倉町が造られていた。 また、数十棟の高屋が建てられ、西面の南北には数十軒の車宿(牛車の車庫か?)があったという。 |
『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)9月17日、中原親能と比企朝宗から清衡・基衡・秀衡の三代が建立した堂塔の説明を受けた源頼朝は、平泉の寺院の領地は先例のとおり寄付することとし、たとえ堂塔がなくなってしまっている土地であっても地頭が占領することを禁ずることを命じた。 その旨は、円隆寺の南大門に貼り紙されたのだという。 |
岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅楽山地内 JR平泉駅から徒歩7分程度 |
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