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永福寺は、源頼朝が鶴岡八幡宮(寺)・勝長寿院に続いて建立した寺院。 奥州平泉の寺院を模した壮大な寺院だった。 『吾妻鏡』によると・・・ 本堂は中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模したもので、扉と仏壇の後壁の絵は円隆寺(毛越寺金堂)を模して描かれたものだったのだという。 ただ、両側に阿弥陀堂、薬師堂を従え、前面には苑池も造営されていることから、全体のイメージとしてあったのは無量光院だったのかもしれない。 |
中尊寺 |
大長寿院 |
毛越寺 |
金堂円隆寺跡 |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 |
無量光院は、奥州藤原氏三代当主・藤原秀衡が建立した寺院。 |
『吾妻鏡』によると、無量光院本尊は丈六の阿弥陀。 堂内の四方の扉には、観無量寿経の大意や秀衡の狩猟の様子が描かれ、三重の宝塔や院内の装飾は、全て宇治の平等院を模していたという。 |
無量光院跡 |
柳之御所遺跡 (平泉館) |
『吾妻鏡』によると・・・ 金色堂の正方に無量光院の北に並べて平泉館があって、西木戸には秀衡の長子国衡、四男隆衡の家が並び、三男忠衡の家は泉屋の東にあった。 秀衡は、無量光院の東門の一郭に屋敷(伽羅御所)を構えて居所とし、これを次男泰衡が相続して居所にしていた。 |
平等院は、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長の別荘「宇治殿」を始まりとする寺院。 道長没後、子の頼通が建てた鳳凰堂(阿弥陀堂)は、西方極楽浄土を表現したもの。 中堂には仏師・定朝作の本尊・丈六阿弥陀如来坐像(国宝)を安置。 周囲の壁と扉には「九品来迎図」、阿弥陀仏の背後の壁には「極楽浄土図」が描かれ、左右の壁の上部には52体の「雲中供養菩薩像」が懸けられている。 源頼朝が建立した永福寺の苑池の景観は、鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されている。 |
1187年(文治3年)10月29日、源義経を庇護していた奥州平泉の藤原秀衡が死去。 1189年(文治5年)閏4月30日には、秀衡の子泰衡に攻められた義経が衣川館で自害。 同年7月19日、源頼朝は奥州征伐を開始。 泰衡は平泉館を焼き払い、逃亡の末、9月3日、比内郡贄柵で郎党に殺害された。 これによって藤原清衡以来栄えた奥州藤原氏は滅亡。 『吾妻鏡』によると・・・ 9月17日、中原親能と比企朝宗から清衡・基衡・秀衡の三代が建立した堂塔の説明を受けた頼朝は、平泉の寺院の領地は先例のとおり寄付することとし、たとえ堂塔がなくなってしまっている土地であっても地頭が占領することを禁ずることを命じた。 その旨は、円隆寺の南大門に貼り紙されたのだという。 |
鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺は、源頼朝建立の三大寺院と呼ばれる。 |
鎌倉市二階堂 鎌倉駅徒歩25分 バス停「大塔宮」から徒歩5分 |
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