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寛永寺は、1625年(寛永2年)、徳川家康・秀忠・家光の三代が帰依した天台宗の僧・天海の発願によって、江戸城の鬼門を守護する寺院として創建された。 山号は東叡山。 「東叡山」には、「東の比叡山」という意味があり、武蔵国川越の喜多院の山号だったのだという。 院号は円頓院。 開基は三代将軍徳川家光。 現在の東京国立博物館付近に本坊があって、上野公園一帯に諸堂伽藍が建ち並んでいたが、1868(慶応4年)の彰義隊の戦い(上野戦争)で多くの堂宇が焼失した。 根本中堂(本堂)裏手の書院には、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜が水戸へ退去する前に蟄居していた部屋が保存され、「葵の間」あるいは「蟄居の間」と呼ばれている。 桜の名所として知られる上野公園は、天海が吉野山から桜を移植したことに始まるのだという。 |
天海の寛永寺は、比叡山延暦寺をはじめとする京都周辺の寺社に見立てて設計されたもの。 |
根本中堂 |
徳川綱吉霊廟 勅使門 |
旧本坊表門 |
開山堂 (両大師) |
護国院 |
五重塔 |
大仏 |
清水観音堂 |
辯天堂 |
大黒天堂 |
時の鐘 |
上野東照宮 |
花園稲荷神社 |
五條天神社 |
晩年の天海は「一切経」の印刷出版を企画。 刊行は、徳川家光の援助を受けて1637年(寛永14)年から始められた。 天海は1643年(寛永20年)に亡くなっているが、着手された「天海版一切経」は、1648年(慶安元年)に完成。 日本で初めてとなる一切経刊行となった。 寛永寺には、「天海版一切経」の印刷に使われた26万を超える活字が伝えられ、「天海版木活字」として重要文化財に指定されている。 |
京都の仁和寺の経蔵に納められている「一切経」は天海版。 天海版一切経の完成を見込んで経蔵が建てられたのではないかと考えられているらしい・・・ |
寛永寺の初代貫主は天海、二代は公海だが、三代以降は法親王が就任した。 二代公海の後に貫主となったのは、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王。 1654年(承応3年)、寛永寺の貫主となった法親王は、日光山の門主を兼ね、翌年には比叡山延暦寺の貫主(天台座主)も兼ねている。 五代公弁法親王は、後西天皇第六皇子。 1702年(元禄15年)の赤穂事件では、五代将軍・徳川綱吉に赤穂浪士に切腹を命ずる決断を促したされる。 露座だった上野大仏の大仏殿を建立し、深大寺の蕎麦を有名にしたことで知られる。 その後、幕末の十五世公現入道親王(北白川宮能久親王)まで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。 貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式だったのだという。 歴代の輪王寺宮は、原則として、東叡山・日光山・比叡山の三山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれていた。 |
日光山輪王寺 |
比叡山延暦寺 |
増上寺は徳川家康が菩提寺とした寺で、家康の葬儀が行われ、二代秀忠と正室の崇源院が埋葬されたことで徳川将軍家菩提寺としての地位が確立する。 三代家光は寛永寺で葬儀を行うことを遺言して死去し、遺体は日光山輪王寺に葬られた。 四代家綱・五代綱吉の葬儀も寛永寺で行われ、二人は寛永寺に葬られた。 これにより、幕府の祈願所だった寛永寺も将軍家菩提寺となる。 その後の歴代将軍は、六代家宣と七代家継が増上寺、八代吉宗は寛永寺、九代家重が増上寺、十代家治と十一代家斉が寛永寺、十二代家慶が増上寺、十三代家定が寛永寺、十四代家茂が増上寺に葬られている。 ただ、最後の将軍十五代慶喜は神道式の埋葬を希望したことから、どちらの菩提寺にも入ることなく、位牌所の大樹寺(岡崎市)にも位牌が置かれていない。 |
徳川将軍家霊廟 (増上寺) |
徳川家光廟所 (輪王寺) |
久能山東照宮 |
徳川家康宝塔 (久能山東照宮) |
日光東照宮 |
徳川家康宝塔 (日光東照宮) |
1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去した徳川家康は・・・ @久能山に遺体を葬り、A増上寺で葬儀を行い、B大樹寺に位牌を納め、C日光山と、D京都の南禅寺の塔頭金地院に小堂を建てるよう遺言していたのだという。 |
寛永寺の総門だった黒門は、1907年(明治40年)、荒川区南千住の円通寺に移築された。 黒門の背後には、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓が並べられている。 |
西郷隆盛像 |
小松宮彰仁親王像 |
西郷隆盛は、征東軍の大総督参謀として勝海舟と会談し、江戸城を無血開城させた。 明治新政府の軍人として活躍した小松宮彰仁親王は、最後の輪王寺宮・公現法親王(のち還俗して北白川宮能久親王)の兄。 |
伝通院は、徳川家康の生母・於大の方の菩提寺。 増上寺・寛永寺とともに三霊山と称された。 二代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼の正室となった千姫も葬られている。 |
延暦寺慈眼堂 |
慈眼堂墓所 |
渋沢栄一の墓 |
徳川慶喜の墓 |
谷中霊園に墓がある渋沢栄一は、近代日本経済の父と呼ばれた実業家。 谷中霊園には、栄一が仕えた徳川慶喜の墓所もある。 |
渋沢栄一は、徳川家ゆかりの寛永寺・浅草寺でそれぞれ檀家総代・信徒総代を務めた。 |
東京都台東区上野桜木1−14−11 |
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