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泉岳寺は、1612年(慶長17年)、徳川家康によって外桜田に創建された曹洞宗の寺院。 開山は門庵宗関(もんなんそうかん)。 本尊は釈迦如来。 1641年(寛永18年)の大火で焼失した後、徳川家光の命により現在の地に再建された。 境内には、1702年(元禄15年)12月14日、吉良義央の屋敷に討ち入り、主君浅野長矩の仇を討った赤穂浪士が葬られている。 |
1701年(元禄14年)3月14日、江戸城松之大廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。 浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。 吉良義央はお咎めなし。 大石良雄(内蔵助)以下47人の赤穂浪士は、翌年12月14日、吉良邸に討ち入り、見事に主君の仇を討った。 |
大石良雄(内蔵助)は、播磨赤穂藩の筆頭家老。 浅野長矩が刃傷事件を起こした後、赤穂城を明け渡し、山城国山科に移って、主君の仇討ち計画を練っていた。 京都の法住寺の不動明王は、良雄が大願成就を祈願した尊像なのだという。 1702年(元禄15年)7月、同士を集めて吉良邸討入りを確認すると、江戸に下向。 12月14日、吉良邸に討入り、翌未明、義央の首級をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。 |
切腹した浅野長矩の遺体は、浅野家の家臣が引き取り、泉岳寺に葬られた。 |
浅野長矩の正室瑤泉院は、赤穂浪士の生活を支えていたという。 1714年(正徳4年)に死去、泉岳寺に葬られた。 |
仇討ちを果たした赤穂浪士四十七人は、泉岳寺の浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供えて報告した。 その後、幕府は、赤穂浪士を4つの大名家にお預けとしている。 赤穂浪士の仇討ちが義挙として称賛される中、助命か死罪かで揺れていた幕府だったが、荻生徂徠などの意見により、1703年(元禄16年)2月4日、赤穂浪士に切腹を命じた。 一説によると、上野寛永寺の公弁法親王が徳川綱吉に切腹を命ずる決断を促したとも・・・ |
上野介の首を掲げた赤穂浪士四十七人は、永代橋を渡って泉岳寺へと向かったのだという。 |
赤穂浪士に討たれた吉良義央は萬昌院に葬られた。 萬昌院には、義央と曾祖父義定・祖父義・父義冬の墓がある。 義央は三河吉良氏。 三河吉良氏は、三河一向一揆で松平家康(徳川家康)に敵対したが、高祖父の義安が相続を許され、曾祖父義定が江戸幕府に仕えることとなった。 |
※ | 松平家康に敵対した吉良義昭〜三河一向一揆〜 |
延命寺 (鎌倉) |
城前寺 (小田原) |
赤穂浪士の一人岡嶋八十右衛門常樹の長男藤松は、のちに鎌倉延命寺の住持となった(次男は江戸長昌寺の住持となっている。)。 「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我十郎祐成と五郎時致の菩提所城前寺の十四世住持は、赤穂浪士の一人吉田忠左衛門兼亮の遺児。 |
四十七士の墓所入口の門は、浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門で、明治時代に移築されたもの。 |
東京都港区高輪2丁目11番1号 泉岳寺駅から徒歩3分 |
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