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城前寺は、1193年(建久4年)、富士裾野で父の仇工藤祐経を討った曽我兄弟の菩提寺。 曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされる。 曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となった。 |
源頼朝が、1193年(建久4年)に催した富士裾野の巻狩りで、曽我兄弟による仇討ち事件が起こり、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父の仇である工藤祐経を見事に討ちとった(5月28日、雷鳴が響き渡る夜のことであった。)。 祐経を殺害したあと、兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、五郎時致は御所五郎丸に捕らえられた。 頼朝は五郎時致の助命も考えたようであるが、のちに斬られている。 曽我氏の館(曽我城)があったとされる地には、城前寺があり、本堂裏手には、兄弟の墓といわれる五輪塔がある。 |
御所五郎丸屋敷跡 御所五郎丸の墓 實相寺(工藤祐経屋敷跡) |
曽我兄弟は幼い頃、工藤祐経によって父の河津祐通(祐泰)を殺され、母の再婚相手曽我祐信のもとに預けられた。 曽我兄弟の幼名は、兄十郎は一萬、弟五郎は筥王。 |
伊東祐親 |
工藤祐経の土地を横領。 |
河津祐泰(祐通) |
工藤祐経に殺される。 |
兄:曽我十郎祐成 弟:曽我五郎時致 |
父が殺された後、母満江御前が曽我祐信と再婚したため曽我に預けられた。 |
河津三郎祐泰の血塚 (伊東市) |
河津祐泰の墓 (伊東市・東林寺) |
左の2基が曽我兄弟のもの。 右の2基は曽我祐信と兄弟の母満江のもの。 |
曽我祐信の墓 |
満江御前の墓 |
曽我兄弟の仇討ちは、そもそもが兄弟の祖父伊東祐親が、一族の工藤祐経の所領を横領したことに始まっている。 祐親は、祐経が京に出仕している間に所領を横領し、祐経に嫁がせていた娘も離縁させ、土肥遠平(土肥実平の嫡男)と再婚させた。 怒りと無念の祐経は、狩りに出た祐親を襲ったが、一緒にいた河津祐通が殺され、祐親は助かってしまうという結果に終わった。 その後、源頼朝が挙兵する。 伊東祐親は、石橋山の戦いで大庭景親につき、頼朝に敵対したため捕らえられ、のちに自害した。 一方の工藤祐経は、頼朝に仕え重用されていた。 |
そして、富士裾野の巻狩りの際に、曽我兄弟による仇討ちが決行されたのである。 しかし、仇討ちが真の目的だったのかという疑問もあるようで、仇討ちの後、頼朝の弟範頼が修禅寺に流され、のちに梶原景時によって殺されていることなどから、何らかの反乱とみる説もある。 また、五郎時致の烏帽子親は北条時政であるという説もあり、かなり複雑な事件だったのかもしれない。 |
源範頼の謀反 太寧寺と源範頼 北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
工藤祐経の墓 (富士宮市) |
曽我兄弟の墓 (富士宮市) |
城前寺では、兄弟が、傘を松明にして、親の仇を討ったという故事にちなみ、仇討ちのあった5月28日には「傘焼きまつり」が行われる。 箱根神社にある曽我神社でも同様の祭が行われる。 |
報復の連鎖〜曽我兄弟の仇討ち〜(okadoのブログ) |
この阿弥陀像は、赤穂浪士の一人吉田忠左衛門兼亮の遺児で、城前寺十四世到誉達玄和尚が亡父の三十三回忌に造像したもの。 昔から「孝行阿弥陀」と呼ばれてきた。 吉田忠左衛門兼亮は、1702年(元禄15年)12月14日、大石内蔵助ら四十七人とともに吉良邸に討ち入り、見事に吉良上野介の首級をあげたが、翌年2月4日、切腹を命じられている。 |
高輪泉岳寺 |
吉良家の墓 (中野区:萬昌院) |
大泉寺の武田氏三代の霊廟には、曽我兄弟の供養塔が置かれている・・・ 武田信玄の父信虎は、曽我五郎時致が甲斐国の国主として生まれ変わってくるという夢を見たのだとか。 |
信虎が目を覚ますと、要害山城(積翠寺)で大井夫人が男児を産んだ知らせが届いたのだとか・・・ |
曽我兄弟と虎御前の五輪塔 (箱根町) 東林寺(伊東市) 浅間神社(二宮町) 曽我五郎時致の恋物語〜仮粧坂〜 (鎌倉) |
曽我梅林 |
流鏑馬 |
梅まつりで行われる流鏑馬は、曽我祐信が弓馬の達人だったという故事から始められた。 |
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