武田信玄は曽我五郎時致の生まれ変わり |
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武田信玄の父・信虎が創建した大泉寺にある曽我兄弟の供養塔。 曽我兄弟とは、 源頼朝が富士裾野の巻狩りを催した際に、父の仇工藤祐経を討った曽我十郎祐成と曽我五郎時致のこと。 |
伝説によると・・・ 1521年(大永元年)、駿河国の今川軍が甲府に攻め入った時の事。 夢見山の山頂でうたた寝をしていた信虎。 すると、夢の中に男が現れ、 「今、甲斐国主を継ぐ男児が誕生した。 それは曽我五郎時致の生まれ変わりである」 と告げたのだという。 目が覚めた信虎に届いたのは、要害城(積翠寺)で大井夫人が男児を出産したという知らせ。 その子は、勝千代と名づけられた。 ただ、勝千代は右手を握ったまま開かなかったのだという。 不思議に思った信虎は、帰依していた天桂禅長に相談。 すると禅長は、 「富士山麓の旅をしているとき、夢の中に一人の武将が現れました。 その武将が言うには、 『私は曽我十郎祐成。 弟の時致は甲斐国主として生まれ変わろうとしています。 伊東家に伝わる黄金の目貫を握って生まれてくるはず。 その証拠としてもう片方の目貫をあなたに差し上げましょう。 大泉と呼ばれる池で時致の手を洗えば、握ったままの手も開くことでしょう』 そして・・・ 『弟は箱根権現の稚児だったので生まれ変わることができますが、 私は生前におかした罪に悩まされております。 どうか法華経一万部を読誦していただけないでしょうか』 と告げられ、目を覚ますと私の手には目貫が握られていました。 どうか大泉池で若君の手を洗ってみて下さい」 と勧めた。 信虎は、禅長の言葉に従って勝千代の手を洗うと、握りしめられていた右手が開き、目貫が出てきたのだという。 そして、大泉寺を創建して禅長を開山として迎え、法華経一万部を読誦させたのだとか。 |
積翠寺は、躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた要害山城の麓にある寺。 要害山城に避難していた大井夫人は、この寺で信玄を産んだのだと伝えられている。 |
山梨県甲府市古府中町5015 JR中央本線甲府駅から徒歩約20分 |
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