「曽我兄弟の仇討ち」は、1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起きました。 5月28日夜半、雷雨の中、河津祐泰の子・曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟(伊東祐親の孫)が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害しました。 不意をつかれた宿舎の者たちは仰天し、駆けつけようにも雷雨のため灯りもままならない有様だったといいます。 兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られますが、弟五郎時致は頼朝の宿舎をめがけて突進します。 頼朝も太刀をとり立ち向かおうとしますが、そばにいた大友能直が留めました。 その間、小姓の五郎丸が五郎時致を取り押さえています。 騒ぎが静まった後、和田義盛と梶原景時が工藤祐経の死骸を確認しました。 この騒動で平子野平右馬允有長・愛甲三郎季隆・吉香小次郎・加藤太光員・海野小太郎幸氏・岡部弥三郎・原三郎清益・堀藤太・臼杵八郎など多くの怪我人が出ました。 そして宇田五郎以下が殺されています。 |
曽我兄弟の父河津祐泰は、1176年(安元2年)10月、工藤祐経に殺されました。 |
血塚は、河津祐泰が落命した地に建てられた供養塔。 |
曽我兄弟は、父祐泰が殺された後、母の再婚相手・曽我祐信のもとで育ちます。 |
五郎時致を捕えた五郎丸は、頼朝に仕えていた小姓。 |
工藤祐経邸に雉が飛び込んだ日 |
5月29日、頼朝は、狩野宗茂・新開荒次郎に命じて、捕えた五郎時致に夜討ちの本意を尋問させます。 しかし、時致は 「祖父の伊東祐親が罰せられてから子孫は落ちぶれてしまい、おそばに近づくことも許されなかったが、最後の所存を申し上げるので、伝言は無用。 御所様に直接お話し申し上げるから早くそこを退いていろ!」 と睨みつけて言ったといいます。 頼朝は思うところがあったらしく、時致の話を直接聞くことにしました。 「工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐ(そそぐ)ためです。 兄祐成が九歳、時致が七歳の頃からその事を忘れる時はありませんでした。 頼朝様の御前に推参いたしましたのは、工藤祐経が可愛がられ、祖父祐親は嫌われておりました。 その恨みがないわけでもありませんでしたので、お会いし、その事を申し上げて自害するつもりでした」 これを聞いていた者は皆感動したといいます。 そして、仁田忠常が兄祐成の首を見せると 「兄に間違いありません」 と答えたといいます。 頼朝は時致の命を助けようと考えますが、工藤祐経の遺児犬房丸が泣いて訴えたので、時致を引き渡して梟首させています。 |
工藤祐経の墓 (富士宮市) |
曽我兄弟の墓 (富士宮市) |
曽我八幡宮 (富士宮市) |
仮粧坂 (鎌倉市) |
曽我八幡宮は、頼朝が畠山重忠を遣わして創建させた神社。 相殿には、曽我十郎祐成・曽我五郎時致・虎御前が祀られています。 仮粧坂には、五郎時致の悲しい恋物語が伝えられています。 |
この太刀は、工藤祐経の子犬房丸が頼朝より賜ったものと伝えられ、末裔の就堯が仕えた益田家に伝えられてきたもの。 |
大泉寺の武田氏三代の霊廟には、曽我兄弟の供養塔が置かれている・・・ 武田信玄の父信虎は、曽我五郎時致が甲斐国の国主として生まれ変わってくるという夢を見た。 |
信虎が目を覚ますと、要害山城(積翠寺)で大井夫人が男児を産んだ知らせが届いたのだとか・・・ |
1176年(安元2年)10月、頼朝を慰めるための「狩猟」が催され、曽我兄弟の父河津祐泰は、その帰路、工藤祐経によって殺害されています。 理由は、曽我兄弟の祖父伊東祐親が工藤祐経の所領を横領したためで、祐経はその恨みから狩に出た祐親を狙いますが、子の河津祐泰を殺してしまったのだと伝えられています。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
曽我祐信は曽我兄弟の養父。 頼朝は、6月7日、鎌倉へ帰りますが、祐信の供を免除し、さらに、曽我庄の年貢も免除しました。 そして、曽我兄弟の菩提を弔うように言ったのだといいます。 |
満江御前は曽我兄弟の母。 河津祐泰が殺された後、兄弟を連れて曽我祐信と再婚しました。 兄弟が母に書いた手紙には、子供の頃から父の仇討ちを果たそうと欲していたことが書かれていました。 頼朝は、涙を拭いながらこれを読み、永く文庫に納めて置くように命じています。 |
虎は祐成の愛人で大磯の遊女。 仇討ち事件では、虎も呼び出されて尋問されています。 虎は祐成の三七日の忌日に箱根権現の別当行実の坊で法事を行った後、出家して信濃の善光寺へ向かったのだといいます。 |
箱根神社 (箱根町) |
曽我神社 (箱根神社) |
延台寺 (大磯町) |
虎御前木像 (鴫立庵) |
延台寺は虎御前が曽我兄弟を供養するために建てた草庵が始まり。 鴫立庵の木像は虎御前19歳有髪僧体のもの。 |
河津祐泰には、祐成と時致の他に二人の子がありました。 『吾妻鏡』によると・・・ 末子は、祐泰が殺されてから5日後に誕生し、祐泰の弟伊東祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られて育てられました。 祐清が1183年(寿永2年)6月の加賀国の篠原で討死すると、妻は大内義信と再婚し、引き取っていた祐泰の子は義信の養子となり、出家して律師と名乗っていたそうです。 曽我兄弟の仇討ち後の6月1日、工藤祐経の妻子から「兄らと同等に処分するように」と訴えられますが、頼朝は兄たちに同意したという証拠がないので許しています。 7月2日、頼朝は律師がどう考えていたのかを聞くため鎌倉に呼び出しますが・・・ 死刑にされると勘違いした律師は、甘縄辺りで念仏を唱えて自害したのだといいます。 もう一人の子・原小次郎は、8月20日、源範頼の縁座として処刑されています(参考:源範頼の謀反)。 |
※ | 伊東祐清は、流人時代の頼朝が伊東祐親に殺されそうになった時、伊豆山権現に逃したという武将。 (参考:八重姫との恋) |
多気義幹(たけよしもと)は、常陸国筑波郡多気を本拠とした武将。 曽我兄弟の仇討ちと直接関係はありませんが、事件の混乱の中、八田知家の策謀により所領を失っています(常陸政変)。 |
富士裾野の巻狩り |
源範頼の謀反 |
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