1193年(建久4年)5月28日、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちは、鎌倉にも伝えられます。 『保暦間記』によると、「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する北条政子に頼朝の弟・源範頼は「私がいるから心配ない」と発言。 それを知った頼朝は、範頼の謀反を疑ったのだといいます。 ただ、『吾妻鏡』では、5月30日に富士からの使者が鎌倉に到着していますが、曽我兄弟の仇討ちがあったことを伝えているだけのようです。 曽我兄弟の仇討ち以降、範頼が『吾妻鏡』に登場するのは8月2日です。 この日、範頼は疑いを晴らすため頼朝に起請文を提出します。 『北条九代記』は、「範頼が謀反の企てをしている」と告げ口した者があって、怒った頼朝が「範頼を討ち滅ぼせ」と命を下したため、範頼は起請文を書いたのだと伝えています。 しかし、起請文の署名に「三河守源範頼」と書かれていたことから、頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」として激怒します。 8月10日、当麻太郎という範頼の家人が頼朝の寝所に忍び込み捕らえられました。 頼朝の真意を確かめるためで、範頼の命令ではなかったようですが、頼朝の範頼に対する疑いは深まったようです。 8月17日、当麻太郎の行動によってますます立場の悪くなった範頼は、伊豆国の狩野宗茂、宇佐美祐茂らに預けられました。 当麻太郎は、誅殺される予定でしたが、頼朝の娘大姫の病気によって、薩摩国流罪となっています。 『吾妻鏡』からは、その後範頼がどうなったのかわかりませんが、伊豆修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられています。 |
範頼が修禅寺に幽閉された翌18日、範頼の家来が武器を手入れして浜の宿館に立て籠もったとして、結城朝光、梶原景時、仁田忠常らが差し向けられます。 8月20日、曾我兄弟の同腹の兄・京小次郎が範頼に連座したとして誅殺されています。 8月24日、大庭景義と岡崎義実が出家しています。 この2人は曽我兄弟の仇討ちに何らかの関与があったのではないかという説もあるようです。 |
修禅寺 (伊豆市) |
源範頼の墓 (伊豆市) |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
太寧寺は、修禅寺を逃れた範頼が、鎌倉の知られるところとなり自刃した場所と伝わっています。 範頼の法号は「太寧寺殿」。 また、称名寺門前にある薬王寺の本尊は、範頼の念持仏と伝わる薬師如来で、範頼の位牌も安置されています。 |
太寧寺の他にも修禅寺を逃れた範頼に関する伝説が各地に存在しています。 北本市の蒲ザクラは、落ち延びた範頼の杖が根付いたものと伝えられています。 |
源範頼の妻は、安達盛長と丹後内侍の娘。 丹後内侍は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。 範頼の謀反の際、子の範円と源昭は比企尼の嘆願により助命され、その子孫が吉見氏として続いたのだと伝えられています。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 吉見氏は範頼館を居館としていたのだといいます。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 源昭は深大寺(調布市)の別当も兼ねたのだとか。 |
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