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比企尼(ひきのあま)は、武蔵国比企郡の代官だった比企掃部允の妻。 源頼朝の乳母を務めた女性。 |
平治の乱に敗れた頼朝は、1160年(永暦元年)、平清盛によって伊豆国へと流されるが、比企尼は夫の掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下り、頼朝が挙兵する1180年(治承4年)までの約20年間、仕送りを続けていた。 夫の比企掃部允は、1180年(治承4年)に頼朝が挙兵をする前に亡くなっている。 |
比企尼は、夫の比企掃部允が亡くなると比丘尼山に草庵を営んでいたのだという。 |
宗悟寺は、比企尼の甥比企能員の館跡とされる地にある寺。 かつては、比丘尼山の麓にあったのだという。 |
比企尼は3人の娘婿にも頼朝への奉仕を命じていたのだと伝えられている。 |
長女:丹後内侍 |
長女の丹後内侍は、惟宗広言と離縁したのち、安達盛長に再嫁。 盛長は頼朝が伊豆で流人生活を送っている時からの側近。 1182年(養和2年)3月9日、北条政子が源頼家を懐妊したときには、着帯の儀で給仕を務めた。 1186年(文治2年)6月10日、丹後内侍が病気になると頼朝は秘かに安達邸を訪れて見舞ったのだという。 娘は頼朝の弟・範頼に嫁いでいる。 |
惟宗広言との間の子・島津忠久は、頼朝の落胤という伝説が各地に残されている。 住吉大社の誕生石には、頼朝の子を身籠った丹後内侍の伝説が残されている。 |
1193年(建久4年)、範頼が謀反の罪で修禅寺に流されると、比企尼は曾孫の範円と源昭の助命嘆願をしたのだという。 |
比企尼の嘆願で救われた範円は、武蔵国横見郡(現在の吉見町)を与えられ、範頼の旧跡を居館としたのだという。 息障院は、範頼の館跡と伝えられる地にある寺院。 範頼は、1159年(平治元年)の平治の乱後、岩殿山安楽寺(吉見町)に隠れ住み、比企尼をはじめとする比企一族の庇護を受けて成長したのだと伝えられている。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 源昭は深大寺(調布市)の別当も兼ねたのだとか。 |
次女:河越尼 |
次女の河越尼は武蔵国の豪族・河越重頼と結婚。 娘は頼朝の弟・義経の正妻(郷御前)。 1182年(寿永元年)8月12日、北条政子が源頼家を出産すると乳母として乳付けの儀式を行った。 1185年(文治元年)、義経が謀反を起こすと、連座して夫の重頼が誅殺されて出家。 1187年(文治3年)10月5日、哀れに思った頼朝は河越荘を与えている。 1189年(文治5年)閏4月30日、娘の郷御前は義経とともに平泉の衣川館で最期を遂げた。 |
三 女 |
三女は伊東祐親の子祐清と結婚。 伊東祐親が流人の頼朝を討とうとしたとき、そのことを頼朝に知らせて伊豆山権現へと逃したのが祐清だったと伝えられている(参考:八重姫との恋)。 夫祐清の兄河津祐泰が工藤祐経に暗殺されると、その末子(曽我兄弟の弟)を引き取っている(参考:曽我兄弟の仇討ち)。 祐清の死後、平賀義信と再婚。 北条時政と牧の方の娘婿となる平賀朝雅を産んだ。 1182年(寿永元年)8月12日、北条政子が源頼家を出産すると乳母に任命され、1192年(建久3年)4月2日、政子が源実朝を懐妊すると腹帯を持参している。 1202年(建仁2年)死去。 3月14日、頼家と政子が永福寺で追善供養を行っている。 |
一杯水は、伊東祐親に追われ、伊豆山権現へと逃れる途中の頼朝が喉の渇きを潤したという水。 |
比企能員 |
1182年(寿永元年)、頼朝の嫡男・頼家が誕生すると、比企尼は甥の比企能員を猶子として、頼家の乳母夫に推挙して許されている。 |
比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜 |
比企朝宗 |
比企氏の一族の朝宗は、能員とともに頼朝に仕え、比企尼の子とも言われるが、詳しいことは不明。 娘の姫の前は北条義時室となっている。 |
鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れた。 『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)6月16日、比企尼から「木陰が涼しく、瓜が食べごろです」と誘われた頼朝は、北条政子とともに尼邸を訪問。 1187年(文治3年)9月9日には、白菊の咲いた比企尼邸で重陽の節句を祝うため、政子や三浦義澄などを引き連れて訪問している。 その後の比企尼の動向は不明。 妙本寺は比企邸跡に建てられた寺院。 |
北鎌倉の瓜ヶ谷は、比企尼の瓜園があったことからそう呼ばれるようになったのだという伝承がある。 |
比企氏の乱 (比企一族の滅亡) 北条義時の正妻:姫の前 (比企朝宗の娘) |
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