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安楽寺は、奈良時代に行基が聖観音像を安置したのに始まるとされる寺院。 真言宗智山派 山号は岩殿山、院号は光明院。 坂東三十三箇所11番札所(吉見観音)。 |
源範頼は、河内源氏の棟梁源義朝の六男。 1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れると、当時10歳前後だった範頼は、岩殿山に逃れたのだという。 兄頼朝の乳母を務めた比企尼をはじめとする比企一族の庇護のもとで成長したとも伝えられている。 |
※ | 九条兼実の日記『玉葉』は、範頼は幼少期に京官人の藤原範季に養育されていたと伝えている。 |
※ | 範頼は遠江国の蒲御厨で生まれ育ったことから蒲冠者と呼ばれる(蒲神明宮)。 |
範頼は、本堂や三重塔を建立したというが、1537年(天文6年)に後北条氏が松山城を攻めた際に伽藍が消失。 現在の建物は江戸時代に再建されたもの。 |
源範頼の妻は安達盛長の娘で、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍が産んだ子。 安楽寺のある吉見町と荒川を挟んで隣接する鴻巣市には盛長館があったといわれ、北本市の高尾阿弥陀堂は範頼の妻亀御前を供養するために建てられたと伝えられている。 1193年(建久4年)、範頼が謀反の罪で修禅寺に流されると、比企尼は曾孫の範円と源昭の助命を嘆願。 助命された範円は横見郡吉見庄を分与され子孫は吉見氏を称するようになり、源昭は慈光寺や深大寺の別当になったのだと伝えられている。 |
放光寺は、安達盛長の館跡と伝えられている地に建てられている寺。 |
北本市の石戸宿は、1193年(建久4年)に謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された範頼が落ち延びた地と伝えら、東光寺の蒲ザクラは、範頼の持っていた杖が根付いたものと伝えられている。 |
高尾阿弥陀堂は、範頼の妻亀御前(盛長の娘)を供養するために建てられたと伝えられている。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 もとは安楽寺と同じ寺で大寺院を形成していたのだという。 範頼を祖とする吉見氏は、範頼館を居館としていたのだと伝えられている。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 |
東京では浅草寺に次ぐ古刹・深大寺は、源氏の尊崇を受けて興隆した寺。 範円と源昭は深大寺に住み、源昭は慈光寺と深大寺の別当を兼ねていたとも伝えられる。 |
曽我兄弟の仇討ちをきっかけに謀反を疑われて伊豆の修禅寺に流された範頼。 |
安楽寺(吉見観音)の6月18日は「厄除け朝観音御開帳」の日。 この日は古くから「厄除け団子」が売られ、参道には出店が立ち並び、深夜2時頃から早朝にかけて大変な賑わいとなるのだとか。 伝説によると・・・ むかし、ある村で疫病が流行。 困った村人たちは、観音さまに団子をお供えして病気治癒を願い、尊前から下げられた団子を分け合って食べると、病気が治ったのだという。 御開帳0:00〜15:00 |
※ | 団子の画像は参道のお休み処「とんびや」さんの看板より。 |
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれている。 その後、観音巡礼は、西国三十三箇所、坂東三十三箇所に、秩父三十四箇所が加わり、百観音巡礼として発展した。 |
埼玉県比企郡吉見町御所374 |
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