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放光寺(ほうこうじ)は、武蔵国足立郡糠田を領していたという安達盛長が館の一画に創建したと伝えられている寺院。 盛長は、源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた頃から仕えていた武将。 頼朝の信頼を得て鎌倉幕府の重鎮として活躍し、頼朝亡き後、源頼家のもとで採られた「宿老13人の合議制」の一人となった。 本堂には、南北朝時代のものと伝わる盛長の木像が安置されている(県指定文化財)。 真言宗豊山派。 本尊は大日如来。 |
墓所の台座・囲石などは、1983年(昭和58年)に伊豆の修禅寺にある盛長の墓を復元したものなのだという。 |
安達盛長は、蛭ヶ小島に流されていた源頼朝に仕える前に糠田の地に館を構えていたと伝えられる。 ただ、「鴻巣市史」では、糠田の地は在地領主だった奴加田氏の本領としている。 放光寺に伝わる伝承は、頼朝の乳母比企尼や源範頼の伝承と結びついたものなのかもしれない。 |
安達盛長の妻は、源頼朝の乳母比企尼の長女丹後内侍。 頼朝の異母弟源範頼は、盛長の娘を妻としている。 1193年(建久4年)、範頼が謀反の罪で修禅寺に流されると、比企尼は曾孫の範円と源昭の助命を嘆願し、横見郡吉見庄(現在の埼玉県吉見町)を分与。 その子孫は吉見氏を称したのだという。 |
安楽寺は、1159年(平治元年)の平治の乱後、範頼が隠れ住んだと伝えられる寺。 |
北本市の石戸宿は、1193年(建久4年)に謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された範頼が落ち延びた地と伝えら、東光寺の蒲ザクラは、範頼の持っていた杖が根付いたものと伝えられている。 |
高尾阿弥陀堂は、範頼の妻亀御前(盛長の娘)を供養するために建てられたと伝えられている。 武蔵国石戸(北本市)は盛長が領していた土地だったのだという。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 平治の乱後、吉見の安楽寺に逃れたという範頼は、比企尼をはじめとする比企一族の庇護を受けていたのだ伝えられている。 吉見氏は範頼館を居館としていたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 比企尼の嘆願で助命されたという範頼の子範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 源昭は深大寺(調布市)の別当も兼ねたのだとか。 |
埼玉県鴻巣市糠田1435番地 |
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