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修善寺の梅林に向かう途中にある「安達藤九郎盛長の墓」。 安達盛長は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の娘婿で、伊豆国の蛭ヶ小島に配流の身のとなった頼朝に仕えた武将。 頼朝が亡くなった翌1200年(正治2年)4月26日に死去。 なぜ修善寺に安達盛長の墓があるのは不明だが、盛長の娘が修禅寺に幽閉され自刃した源範頼の妻だったということに関係があるのかもしれない。 かつては、範頼の墓の近くにあったが、バイパス工事に伴なって現在地に移されたのだという。 |
埼玉県鴻巣市にある放光寺は、安達盛長の館跡と伝えられている。 境内にある盛長の墓所の台座・囲石などは、1983年(昭和58年)に修善寺の盛長の墓を復元したものらしい。 |
埼玉県北本市にある高尾阿弥陀堂は、源範頼の妻・亀御前を弔うために建てられたのだという。 伝説によると、亀御前は、修禅寺で範頼が自刃したことを知ると、後を追うように自刃したのだという。 亀御前は安達盛長の娘で、北本市(武蔵国石戸)は盛長が領していた土地だったのだという。 |
源範頼の妻は、安達盛長と丹後内侍の娘。 丹後内侍は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。 範頼が謀反を疑われて修禅寺に流された際、子の範円と源昭は、比企尼の嘆願により助命され、その子孫が吉見氏として続いたと伝えられている。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 平治の乱後、範頼は吉見の安楽寺に逃れたと伝えられ、比企尼をはじめとする比企一族の庇護を受けていたのだ伝えられている。 範頼を祖とする吉見氏は範頼館を居館としていたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 源昭は深大寺(調布市)の別当も兼ねたのだとか。 |
「修善寺」という地名は、弘法大師によって開創された修禅寺をその由来としている。 |
静岡県伊豆市修善寺964 伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」より 修善寺温泉行バス。 「修善寺温泉」下車 |
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