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高源寺(こうげんじ)は、弘法大師(空海)によって開かれたという古寺。 平治の乱の敗北によって伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が文覚と源氏再興の密議を行った寺と伝えられ、石橋山へ進軍する頼朝軍の「軍勢ぞろいの地」とも伝えられている。 頼朝が伊豆に流されていた当時の高源寺は、長久寺と称する真言宗の寺で、修行の道場として伊豆国一円を支配していたものと考えられている。 山火事によって伽藍を焼失してしまうが、1190年(建久元年)に源頼朝が再興。 その時に「長久寺」から源氏の一字を入れた「高源寺」に改められたのだとか・・・ 山号は寶船山。 現在は曹洞宗の寺院。 |
文覚は、後白河法皇に神護寺再興の強訴をして伊豆に流された怪僧。 頼朝が流されていた蛭ヶ小島に近い奈古谷に草庵を結び、頼朝に源氏再興の挙兵を勧めたのだと伝えられている。 |
源頼朝に挙兵を勧めた文覚(『平家物語』) |
1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、伊豆国目代の山木兼隆を討つと、8月20日、相模国へ進軍を開始。 石橋山の戦いで敗れてしまうが、真鶴から安房へ渡り再挙。 10月6日(7日)には鎌倉入りを果たした。 |
源頼朝が伊豆に流されていた約20年間、頼朝を援助し続けた比企尼の屋敷も高源寺の近くにあったのだという。 比企尼は頼朝の乳母。 頼朝が蛭ヶ小島の流人だった頃から仕えていた安達盛長の妻は、比企尼の長女丹後内侍。 流人頼朝の命を救ったという伊東祐清の妻は、比企尼の三女。 |
比企尼・丹後内侍・安達盛長には各地に様々な伝承があるが、当然、伊豆国にも。 1160年(永暦元年)3月11日、前年の平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されると、京都にいた比企尼は長女の丹後内侍とその夫安達盛長らとともに伊豆国の桑原郷に移り住んだのだという。 桑原郷の比企尼の屋敷に通っていたという頼朝。 高源寺で比企尼の娘と密会し、その娘が身籠ってしまう。 盛長は密かに自分の生地である伊予国へ移住させようとするが、途中の摂津国の住吉社で子を出産。 その子がのちの島津忠久なのだとか・・・ |
大阪の住吉大社には、島津忠久の誕生石がある。 その伝承によると、頼朝の子を身籠ったのは丹後内侍。 |
比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜 |
高源寺の門前を流れる冷川沿いにある不動の滝。 滝の横の石祠は「冷川不動」と呼ばれ、かつては、高源寺の塔頭「不動院」があった場所という。 本尊の赤不動明王は文覚の作と伝わる。 |
北条宗時は、北条時政の長男。 北条政子の弟・北条義時の兄。 『吾妻鏡』によると、源頼朝が石橋山の戦いで大敗すると、宗時は土肥から桑原を経て平井へと向かおうとしたが、早川(はやかわ)の辺りで伊東祐親の軍に討たれたのだという。 宗時が討たれた早川とは、函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説がある。 |
伊豆国の桑原郷には、箱根権現(現在の箱根神社)を開いた万巻の弟子たちによって建立された小筥根山新光寺という大寺があったのだという。 明治の廃仏毀釈により新光寺や子院の平清寺が廃絶すると、安置されていた二十四体の仏像は住民によって高源寺や長源寺(桑原薬師堂)に移され、現在は、2012年(平成24年)に開館した「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている。 そのうちの阿弥陀三尊は、北条時政が子宗時の慰霊のために造立させたものと伝えられている。 |
静岡県田方郡函南町桑原1265 JR函南駅から徒歩30分 |
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