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伝説によると・・・ 源頼朝に仕えていた丹後局(丹後内侍)が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。 重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだという。 そして、丹後局は摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。 社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。 のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。 それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。 忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられている。 |
※ | 丹後局(丹後内侍)は、頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。 |
※ | 忠久の妻は畠山重忠の娘と伝えられている。 |
島津忠久の生年は不明だが、1185年(元暦2年)6月15日の頼朝の下文によると伊勢国波出御厨の地頭に補任されている。 したがって、これ以前より頼朝に仕えて活躍していたことになるので、北条政子の嫉妬云々という説には時代的に無理がある。 ただ、『島津系図』によると、忠久の母は比企能員の妹丹後局となっていることから、父親が頼朝かどうかは別として、丹後局が産んだ子であるという説はあり得るのかもしれない。 また、『吉見系図』によると、丹後局は二条院に仕えていた頃に惟宗広言と通じて忠久を産んだとされ、上記の下文の宛名も「惟宗忠久」となっている。 |
※ | 比企能員は比企尼の養子。 |
懐嶋山の碑 (茅ヶ崎市) |
小町神社 (厚木市) |
茅ヶ崎市の「懐嶋山の碑」は、「えな塚」とも呼ばれ、頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。 厚木市の小町神社は、北条政子に殺されそうになった丹後局が逃れた地で建立したという社。 |
伊豆函南町の高源寺の近くには、頼朝の乳母比企尼の屋敷があっと伝えられ、蛭ヶ小島の流人だった頼朝が通って娘を身籠らせたのだという。 忠久を頼朝の御落胤とすれば、時代的に合うのが高源寺の伝説なのかもしれない・・・ |
住吉大社は、摂津国一之宮。源頼朝にもゆかりのある神社。 |
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