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小町神社(こまちじんじゃ)は小町姫を祀る神社。 伝説によると、源頼朝に仕えていた丹後局(丹後内侍)が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。 重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がした。 そこが小野の里。 愛甲季隆が匿っていたとも伝えられている。 しかし、それを知った政子が呪いをかけると、丹後局の髪は一晩のうちに白髪になってしまう。 悲しんだ丹後局は、小町姫に十七日間の祈願をかけたところ、前のような黒髪に戻ったのだという。 霊験の尊さを知った丹後局が小野の里に建てたのが小町神社だと伝えられている。 小町神社に祀られている小町姫は、平安時代の女流歌人で絶世の美女といわれる小野小町。 厚木市小野は、小野小町の出生地ともいわれ、小町神社周辺には化粧池や化粧井戸など小野小町に関する伝説も数多く残されている。 |
小野小町の歌〜百人一首:花の色はうつりにけりないたづらに〜 |
丹後局は伊豆の蛭ヶ小島に流された源頼朝を支援しつづけた比企尼の娘で、頼朝の家臣安達盛長の妻。 『吾妻鏡』によれば、1182年(養和2年)3月9日、北条政子の安産祈願として執り行われた「着帯の儀」では、頼朝自らが帯を締め、丹後局がその手伝いをしたという。 8月12日に頼家が誕生すると丹後局の妹が乳母となっている。 |
小野の里に残されている伝説では、丹後局は和泉国で男子を生んだ。 その子が薩摩の島津氏の祖となる忠久だという。 摂津国一宮の住吉大社の境内で出産したという言い伝えもある。 |
茅ヶ崎にある「懐嶋山の碑」は、「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められた場所と伝えられている。 |
安達盛長の嫡男景盛が頼朝と丹後局との間に生まれたという御落胤説もある。 のちに起こる霜月騒動では、このことが安達氏滅亡の原因の一つになったともいう。 |
『吾妻鏡』によると、丹後局が生んだ子は景盛のみ。 ただし、源頼朝の子という記載はない。 |
小野篁神社 (大津市) |
玉章地蔵 (京都:退耕庵) |
小野氏は、近江国滋賀郡小野村の豪族。 小野小町は、小野篁の息子・良真の娘といわれ、篁を祀る小野篁神社は小野氏の祖を祀る小野神社の末社。 境内には小野小町の塔が建てられている。 東福寺の塔頭退耕庵の玉章地蔵は、小野小町に贈られた恋文が納められているという地蔵尊。 境内には小野小町百歳井戸もある。 小町神社の近くには、延喜式内相模十三社の一つ一つで小野妹子を先祖とするという愛甲季隆が崇敬した小野神社もある。 |
神奈川県厚木市小野 小田急線「愛甲石田」駅からバス 小野宮下車すぐ |
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