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伊東祐清(いとうすけきよ)は、伊豆に流されていた源頼朝の監視役伊東祐親の次男。 妻は、頼朝の乳母だった比企尼の三女。 |
『曽我物語』によると・・・ 平治の乱後、伊豆国流罪となった源頼朝は、伊東祐親が大番役で上洛している間に、祐親の三女・八重姫と結ばれる。 やがて二人には男児が誕生して千鶴丸と名付けられた。 しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。 八重姫は、頼朝から引き離され、江間小四郎(小次郎)という者に嫁がされてしまう。 さらに、祐親は、頼朝も討とうとするが、子の祐清が頼朝に身の危険を知らせたことで、頼朝は北条時政邸に逃れることができたのだという。 祐清は、北条時政を烏帽子親としていた。 『吾妻鏡』によると・・・ 祐親が頼朝を殺害しようとしたのは、1175年(安元元年)9月頃のこと。 祐清から知らせを受けた頼朝は、熱海の走湯権現(現在の伊豆山神社)に逃げ込んだのだと伝えられている。 |
伊東祐親の娘八重姫との恋(歴史めぐり源頼朝) 北条時政の許に逃れた頼朝 |
音無神社 (伊東市) |
日暮八幡神社 (伊東市) |
最誓寺 (伊東市) |
真珠院八重姫御堂 (伊豆の国市) |
産衣石 (伊東市) |
三島神社 (伊東市) |
一杯水 (静岡県熱海市) |
今宮神社 (静岡県熱海市) |
1180年(治承4年)8月、源頼朝が北条時政らの援助を受けて源氏再興の挙兵を果たすが、祐清は父祐親とともに平家方に付いた。 頼朝は、石橋山の戦いで大敗してしまうが、真鶴から安房へ渡って再起。 10月には鎌倉入りを果たし、富士川の戦いに臨んだ。 『吾妻鏡』によると・・・ 10月19日、祐親と祐清は天野遠景に捕えられ、三浦義澄に預けられた。 伊豆にいた頃に祐清に助けられた頼朝は、祐清を呼び出して恩賞を与えようとするが、祐清は「父が捕えられているのに褒美などいただけない」として釈放を求め、平家に味方するため上洛したのだという。 |
※ | 三浦義澄の正妻は伊東祐親の娘。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1182年(養和2年)2月14日、北条政子の懐妊による恩赦で三浦義澄に預けられていた祐親が助命されることに。 しかし、祐親はこれまでの所業を恥じて三浦邸で自害。 翌日、堀親家から祐親自害の報告を受けた頼朝は、祐清を呼んで、かつて自分を助けてくれたことへの褒美を与えようとするが、祐清は死を望み、死刑となったのだという。 ただ、『吾妻鏡』には、これとは矛盾する記録もある。 富士川の戦い後、平家に味方するために上洛した祐清は、北陸道合戦で討死したというもの(建久4年6月1日条)。 どちらが正しい事なのかは不明。 |
河津祐泰は祐清の兄。 祐泰は、1176年(安元2年)、領地問題のもつれから工藤祐経に殺害された。 1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に仇討ちを決行した曽我兄弟は祐泰の子。 曽我兄弟は、工藤祐経を討ち取ったが、兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟五郎時致は捕えられて梟首された。 『吾妻鏡』によると、曽我兄弟には河津祐泰の死後五日目に生まれた弟がいた。 その子は、祐清の妻が引き取って育てられた。 祐清の死後、祐清の妻はその子を連れて大内義信に再嫁。 のちに子は僧となって律師と名乗っていたのだという。 1193年(建久4年)6月1日、工藤祐経の妻子が律師の処分を訴えてきた。 その時は曽我兄弟に同意した証拠がないので許されたのだが、7月2日、鎌倉に呼び出された律師は、死刑になると勘違いし、甘縄辺りで念仏を唱えて自殺してしまったのだと伝えられている。 |
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