『曽我物語』によると・・・ 伊東で暮らしていた流人源頼朝は、監視役の伊東祐親が大番役で在京中に、その娘八重姫と結ばれ男児を授かります。 千鶴丸と名付けて大切に育て、成人したら平家打倒の挙兵を考えていたようですが・・・ 千鶴丸が三歳の時に祐親が大番役の任を終えて帰ってきます。 自分の娘が頼朝と結ばれ子までもうけたことを知った祐親は、平家から咎めを受けることを恐れて千鶴丸を殺害してしまいます。 そして、将来敵となるかもしれない頼朝も夜討ちすることにします。 ただ、夜討ちの計画は祐親の次男祐清によって頼朝に知らせれます。 |
※ | 祐清は頼朝の乳母比企尼の三女を妻としていました。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 祐親が頼朝を殺害しようとしたのは、1175年(安元元年)9月頃のこと。 祐清から知らせを受けた頼朝は、熱海の走湯権現(現在の伊豆山神社)に逃げ込んだのだといいます。 真名本『曽我物語』によると・・・ 祐清から自分の烏帽子親である北条時政を頼るよう勧められ、安達盛長と佐々木盛綱を残し、夜陰に紛れて伊東館を出たのだといいます。 『曽我物語』には、走湯権現に逃げ込んだことは記されていませんが、一時走湯権現に避難して北条館へ向かったのかもしれません。 |
※ | 祐清は時政を烏帽子親としていたようです。 |
明け方、頼朝が北条の里に到着すると・・・ 北条時政は走り出て頼朝を迎え、涙を流します。 そして、子の義時の宿所を頼朝の居所としたそうです。 その居所は「東の小御所」と呼ばれ、祐親の攻撃に備えるため交代で守護したのだとか・・・ |
東の御所は蛭ヶ小島にあったのかも・・・ |
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