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仁田忠常は、伊豆国仁田郷の武将。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が挙兵するとこれに従った。 1185年(元暦2年)の平家追討では源範頼に従って活躍し、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。 1189年(文治5年)の奥州征伐でも武功を挙げた。 1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」では、十郎祐成を討ち取っている。 頼朝亡き後も二代将軍源頼家の信任を得て、頼家の嫡子一幡の乳母夫に就任。 1203年(建仁3年)9月2日の比企の乱では、北条時政の命により天野遠景とともに比企能員を暗殺したが、9月6日には、加藤景廉に殺された。 静岡県田方郡函南町仁田には、忠常の墓と館跡がある。 |
※ | 中央が仁田四郎忠常、左が弟五郎忠正、右が同じく六郎忠時の墓。 |
右大将頼朝公富士裾野巻狩仁田忠常古猪討図 |
富士裾野の巻狩りで源頼朝に襲いかかった大猪に仁田忠常が飛び乗り、刀を突き刺して退治したのだとか・・・。 |
源頼家の命により富士の人穴に入った仁田忠常。 穴の奥へと進むと江の島の岩屋に到達したのだとか・・・。 富士の人穴探検 浅間大菩薩に祟られた? |
「私の命を縮め、忠常を救い給え・・・」と三嶋大社に祈願した結果・・・ 貞女の鑑〜仁田忠常の妻〜 |
1203年(建仁3年)9月2日、比企能員を暗殺した忠常は、乱後の9月6日に時政邸に呼び出され、その帰りに加藤景廉に誅された。 仁田忠常の誅殺 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
静岡県田方郡函南町仁田167−1 伊豆箱根鉄道駿豆線「伊豆仁田」駅から徒歩 |
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