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『吾妻鏡』が伝える
比企一族の最期
〜比企能員の変〜

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比企一族の墓


 1203年(建仁3年)9月2日、比企能員北条時政邸で暗殺されると、その知らせを受けた比企一族や郎党は、源頼家の嫡男の一幡の館(小御所)に籠って防戦体制を整えるが・・・

 未の三刻(午後2時半頃)、北条政子が比企一族を滅ぼすよう命令を下した。

 派遣されたのは、北条義時北条泰時平賀朝雅小山朝政・長沼宗政・結城朝光畠山重忠・榛谷重朝・三浦義村和田義盛・和田常盛・和田景長・土肥惟光・後藤信康・所朝光・尾藤知景・工藤行光・金窪行親・加藤景廉・加藤景朝・仁田忠常らの大軍勢。

 北条軍に攻めかかられた比企軍は、能員の子比企宗員・比企時員・比企五郎、能員の猶子川原田次郎、能員の娘婿の笠原親景・中山爲重・糟谷有季らが死を賭して防戦。

 申の刻(午後4時頃)まで激戦が続き、北条軍は加藤景朝・加藤景廉らが負傷して後退するが、畠山重忠が力の残っている郎党に入れ替えて攻め込むと、比企軍はその威力に適わず、館に火を放って一幡の前で自刃したのだという。

 頼家の嫡男一幡もこの災難を逃れることはできなかった。

 能員の嫡子だった与一兵衛尉は女装して逃亡を図るが、加藤景廉に梟首され、能員の妻の父渋川刑部丞も処刑されている。

 翌日には、討ちもらされた残党らが捕らえられ、流罪や死刑に処せられたが、能員の末子(二歳・のちの能本)は助命されて和田義盛に預けられ、安房国に流されている。



比企一族の墓
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(妙本寺)
一幡の袖塚
リンクボタン一幡の袖塚
(妙本寺)


比企能員邸跡碑
リンクボタン比企能員邸址碑

 妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。

 妙本寺は、比企能員の変で助命された比企能本が1260年(文応元年)に創建した。



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リンクボタン仁田忠常の誅殺









比企能員

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