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一幡は、二代将軍源頼家の嫡子。 母は、比企能員の娘・若狭局。 1203年(建仁3年)9月2日、比企能員が北条時政に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃された(比企氏の乱(比企能員の変))。 比企一族は、一幡の住居・小御所に籠もって北条軍と戦ったが、その威力に適わず小御所に火をかけて自害したのだという。 この戦いで一幡も焼け死んだのだと伝えられている(6歳)。 |
『吾妻鏡』によると、9月3日、大輔房源性が小御所の焼け跡から一幡の小袖を見つけ出し、高野山の奥の院に奉納するため出掛けている。 一幡が最後に着ていたのは、菊花の模様の染めた小袖だったのだという。 『北条九代記』によると、燃え残ったわずかな小袖を目印として骨を拾い高野山へ向かったのだとか。 ただ・・・ 一幡は比企氏の乱で焼け死んだとされる一方で、慈円の『愚管抄』は、母若狭局と辛うじて逃げ延びたが、北条義時の郎党に捕らえられて殺害されたと伝えている。 |
大輔房源性(だいゆうぼうげんせい)は、源頼家の近習(蹴鞠の名人)。 『吾妻鏡』によると・・・ 算術に優れ、見ただけでその田畑の面積を間違えることがなかったのだという。 また、弘法大師が始めたと伝えられる五筆(両手両足と口に筆を加えて文字を書く芸)を極めていたのだとか。 |
蛇苦止堂には、一幡の母若狭局が祀られている。 |
一幡の館があった小御所山には、風がわたると琴を弾くような音がした「琴弾の松」があったのだという。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
『吾妻鏡』には、1203年(建仁3年)正月2日の条に、一幡が鶴岡八幡宮に参拝した際、巫女が「一幡が家督を継ぐことはない」と神懸かり的に叫んだという記述がある。 この時すでに9月2日に起こる比企の乱で一幡が死ぬことが暗示されていた・・・。 |
鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜 |
頼朝の子・孫:断絶した血筋 失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想 源頼家の嫡子一幡と嫡子のはずだった公暁 源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員の邸跡に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
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