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比企能員邸跡に建立された妙本寺の総門前には、「比企三郎能基本行院日学上人舊地」と刻まれた石碑が建てられている。 「比企三郎能基(能本)」とは、源頼朝の重臣比企能員の末子。 「本行院日学」は、能本が日蓮から授けられた法号。 1203年(建仁3年)、比企一族が滅ぼされた比企能員の変が起こったとき、能本は2歳だった。 『吾妻鏡』によると、比企能員の変後、助命された能本は、和田義盛に預けられ、安房国へ流されている。 配流後どうなったのか『吾妻鏡』からは分からないが、 『新編鎌倉志』によると、伯父の伯耆の法師という人物が出家させて京都に匿ったのだという。 伯耆の法師は、山ノ内の証菩提寺の住持で、比企能員の変が起こったときは京都の東寺に在していたのだとか。 後に能本は順徳上皇に仕え、1221年(承久3年)の承久の乱で上皇が土佐に配流となった後も仕えいたようだが、 1230年(寛喜2年)、姪の竹御所(二代将軍源頼家の娘)が四代将軍藤原(九条)頼経の妻となったことから許されて鎌倉に戻ったのだという。 その後・・・ 1253年(建長5年)、日蓮が鎌倉で布教を始めると俗弟子となって、比企一族の菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上。 これが妙本寺のはじまりと伝えられ、1260年(文応元年)には日蓮が「長興山妙本寺」と名づけたのだという。 1260年(文応元年)というと、比企能員の変で自害したという能本の姉の讃岐局(若狭局)が物の怪となって現れた年(参考:蛇苦止明神)。 |
※ | 腰越の本龍寺は、比企高家の屋敷を寺としたといわれているが、高家と能本は同一人物ではないかともいわれている。 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員の邸跡に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
鎌倉市大町1−15−1 0467(22)0777 鎌倉駅東口から徒歩8分 |
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