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1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱(比企能員の変))。 二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。 『吾妻鏡』によれば、1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、比企判官能員の娘に祟られ、蛇のような狂態を見せるようになったが、鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復した。 のちに政村は、比企氏の邸跡に、若狭局を蛇苦止明神として祀る社を建立したのだという。 それが蛇苦止堂といわれている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1260年(文応元年)10月15日、北条政村の娘が物の怪に祟られて悩乱状態に。 取り憑かれた娘は、様々なことを口走ったという。 修験者がその訳を尋ねると、物の怪が現れた。 物の怪は、比企能員の娘讃岐局(若狭局)で、 「死んでから大蛇の姿となり、頭には大角があって、比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる」 と語り、この話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったという。 11月27日、北条政村は娘の邪気を祓うため、一日で法華経を書写し、讃岐局の供養を行った。 導師は、鶴岡八幡宮の別当隆弁。 隆弁の説法の最中、政村の娘は、舌を出し、唇を舐め、足を延ばして身悶えをし、まるで蛇身が現れて隆弁の説法を聴聞していたようだった。 そして、隆弁の加持祈祷が終わると、ぼうぜんとなり、眠るようにして祟りから覚めた。 その後、北条政村は、比企ヶ谷に蛇苦止堂を建立したのだという。 |
讃岐局と若狭局は同一人物か? 比企能員が暗殺された1203年(建仁3年)9月2日の『吾妻鏡』は、能員の娘のことを「将軍家が妾。若君が母儀也。元は若狭局と号す」と記しているので、比企能員の変のときには讃岐局と呼ばれていたのかもしれない・・・。 妙本寺の「諸堂紹介」では、讃岐局の弟比企能本が日蓮に救いを求め、日蓮が法華経の功徳によって讃岐局の霊を成仏させ、 蛇苦止明神として祀ったと紹介している。 |
蛇苦止明神の前にある井戸は、蛇苦止ノ井と呼ばれ、若狭局(または讃岐局)が身を投じた井戸と伝えられている。 |
祖師堂前の大イチョウの下には、讃岐局の供養塔が建てられている。 |
一幡は若狭局の子。 比企能員の変で焼け死んだとされるが、慈円の『愚管抄』は、母若狭局と辛うじて逃げ延びたが、北条義時の郎党に捕らえられて殺害されたと伝えている。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
比企能員の変で自害したとされる若狭局だが、『愚管抄』は息子の一幡とともに辛うじて逃げ延びたと伝えている。 一幡は北条義時に殺されてしまったようだが、若狭局は・・・ もし、若狭局が生きていたとすると、北条政村の娘に取り憑いた讃岐局と若狭局は別人ということに。 |
東松山市は、比企能員が領した武蔵国比企郡の一部。 能員の館跡に建てられているという宗悟寺は、若狭局が源頼家の菩提を弔うために建てた壽昌寺を始まりとするとされ、近くの串引沼は若狭局が頼家の形見の櫛を捨てた沼だと伝えられている。 また、宗悟寺には頼家の位牌と蛇苦止観音像が残されている。 |
宗悟寺 |
串引沼 |
東松山市の伝説によると、若狭局は比企の乱後も生存していたこととなる。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員邸の跡地に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
鎌倉市大町1−15−1 0467(22)0777 鎌倉駅東口から徒歩8分 |
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