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「讃岐局蛇苦止霊之墓」と彫られた石塔。 比企一族の供養塔の背後、市の天然記念物に指定されているイチョウの古木の下にある。 讃岐局は、比企能員の娘。 『吾妻鏡』によれば、北条政村の娘は、讃岐局に祟られ、蛇のような狂態を見せるようになったが、鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復したのだという。 |
のちに北条政村は、讃岐局を蛇苦止明神として祀ったのだという。 |
蛇苦止明神の前にある井戸は、蛇苦止ノ井と呼ばれ、讃岐局が身を投じた井戸と伝えられている。 |
『吾妻鏡』では、北条政村の娘に祟ったのは「比企判官能員女讃岐局・・・」と記載されているが、この「讃岐局」というのは「若狭局」のことなのであろうか。 それとも、能員には、別に讃岐局という娘がいたのであろうか・・・?。 |
@ | 同一人物であり、若狭局はのちに讃岐局と呼ばれた。 |
A | 一幡の母が若狭局、政村の娘に祟ったのが讃岐局。 |
という主に2つの見解があるようだが・・・ 比企能員が暗殺された1203年(建仁3年)9月2日の『吾妻鏡』には、能員の娘のことを、 「将軍家が妾。若君が母儀也。元は若狭局と号す」 と記されているので、若狭局はこの時点で「若狭局」とは呼ばれていなかったことになる。 だとすると、上記@のように「のちに讃岐局と呼ばれた」という説が正しいのかもしれない。 参考までに、若狭局の最期については、 |
@ | 一幡とともに比企の乱で焼け死んだとする『吾妻鏡』の説と、 |
A | 一幡とともに逃げ延び、2ヶ月あまり経った後、北条義時の郎党に捕らえられ、刺し殺されたとする慈円の『愚管抄』の説がある。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員の邸跡に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
鎌倉市大町1−15−1 0467(22)0777 鎌倉駅東口から徒歩8分 |
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