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『愚管抄』は、慈円が著した歴史書。 慈円は、源頼朝の征夷大将軍の宣下をした九条兼実の弟。 1192年(建久3年)には比叡山延暦寺の貫主(座主)に就任している。 その慈円の『愚管抄』は比企能員の変について次のように伝えている。 |
「源頼家は、大江広元の屋敷で倒れ、そのまま広元邸で病の床に就いていたが、8月末日には自ら出家し、家督を一幡に譲ることに。 それでは比企氏の全盛となってしまうと考えた北条時政は、比企能員を誘き出して暗殺。 一幡のいる比企邸に軍勢を差し向け、糟屋有季・笠原親景・渋川兼忠・比企一族・児玉党を討った。 そして、幼い実朝を擁立。 一幡は母の若狭局が抱いて逃げのびたが、11月3日、北条義時に探し出され、義時の郎党に刺し殺された。 出家後、病気が回復した頼家は、事件を聞いて大いに怒り、病み上がりの体でかたわらの太刀をとり立ち上がったが・・・ 政子がとりついたりしておさえつけ、ついには修禅寺に幽閉した」 |
※ | 糟屋有季の妻は比企能員の娘。 『愚管抄』の記事は、有季の縁者に語られた情報をもと書かれたと考えらえている。 |
※ | 笠原親景の妻も比企能員の娘。 |
※ | 渋川兼忠は、娘を比企能員に嫁がせている。 |
『吾妻鏡』は、頼家が能員に時政討滅の許可を与えたことが事件の発端のように伝えているが・・・ 『愚管抄』が伝える内容からすると、千幡(のちの実朝)を後継者にしたい時政の謀略であって、『吾妻鏡』の能員暗殺の理由は作り話という考え方もできる。 京都の慈円が嘘の事を伝える理由は何もないので、『愚管抄』の内容が事実に近いのかもしれない。 だとすると・・・ 能員は一幡が跡継ぎに決まっているので、焦る必要はない。 一方、形勢を逆転するためには急を要する時政。 頼家の出家の翌々日には比企を滅ぼしている。 能員の油断をついたということなのかもしれない。 近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・ 「将軍頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、9月7日、朝廷は弟を征夷大将軍に任命し、実朝の名を与えた」 ということが記されている。 この内容からすると、時政・政子・義時は「頼家は死ぬ」と決めつけていたようだ。 そうでなければ、時政の行動を政子が許すとは思えない・・・ |
宗悟寺 (東松山市) |
串引沼 (東松山市) |
『愚管抄』には若狭局がどうなったのか記されていないようだが・・・ 東松山市の伝承では、頼家が修禅寺で暗殺された後、故郷に戻って頼家追福のために壽昌寺を建立したのだという。 宗悟寺は、その壽昌寺を始まりとすると伝えられている。 串引沼は、若狭局が頼家の形見の櫛を投げ入れたとされる沼。 |
源頼家の家督相続 北条政子の配慮で出家した源頼家 兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
比企一族の墓 (妙本寺) |
一幡の袖塚 (妙本寺) |
妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。 |
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