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1203年(建仁3年)7月、源頼家が重病になった事をきっかけに、権力争いを激化させていった北条と比企。 誰もが「頼家は回復しない」と考えていたらしい。 そのような中で起こったのが比企能員の変。 『吾妻鏡』によると・・・ 9月2日、北条時政は比企能員を自邸に誘き出し、天野遠景と仁田忠常に命じて能員を暗殺。 北条政子の命を受けた北条義時が比企邸を攻め、比企一族を滅亡させた。 頼家の嫡子一幡も比企一族とともに滅びている。 しかし・・・ 比企が滅ぼされた後、頼家の病気は回復へと向かう。 比企と一幡が滅ぼされたと知った頼家は、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗。 そして9月7日、政子の配慮により出家。 政子の配慮??? 『吾妻鏡』には詳しく記録されていないが・・・ すでに頼家に従うものはなく、このままでは謀反人に担ぎ出される可能性もあり・・・ そうなれば、北条氏によって暗殺されてしまう可能性もあるため、頼家の命を救うには出家しかないということかも。 出家した頼家は9月29日、伊豆国の修禅寺へ出発。 先陣の随兵は百騎。 次に女騎が十五騎。 次に神輿三帳。 次に小舎人童一人 後陣の随兵は二百餘騎 だったのだという。 |
『吾妻鏡』には、政子の配慮で出家したという頼家だが、慈円の『愚管抄』には、8月末日に自ら出家したことが記されている。 いずれにしても、修禅寺に流された頼家は、翌年7月18日に暗殺された。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 |
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