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伊豆国田方郡天野を本拠とした天野遠景の墓。 中央が遠景、左が子の政景、右が弟の光家の墓と伝えられている。 |
1891年(明治24年)に出版された『天野氏譜録』によると、遠景は鎌倉の亀谷の生まれで、足立遠元の猶子となっていたのだという。 また、1170年(嘉応2年)には、狩野(工藤)茂光に従って源為朝の討伐で功を挙げたのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)に伊豆国に流されていた源頼朝の挙兵に当初から参陣。 山木館襲撃を前にした8月6日には、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美佑茂・佐々木盛綱・加藤景廉らとともに頼朝に呼ばれ、丁寧な言葉をかけられている。 8月24日、石橋山の戦いで頼朝は大敗してしまうが、椙山に逃れた頼朝を守るため、加藤景廉・佐々木高綱・堀親家らとともに奮戦した。 10月の富士川の戦いでは、頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親を捕縛している。 1185年(元暦2年)の平家追討では源範頼に従軍。 壇ノ浦の戦いを目前とした3月11日には、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。 この時の平家追討で得たのが、東昌寺に伝えられている念持仏なのだという。 同年末には、平家の残党及び源義経一党らの追捕を目的に設置された九州惣追補使に任命され、約10年の間、九州で活躍。 頼朝亡き後は、1199年(正治元年)の梶原景時の追放に関わり、1203年(建仁3年)の比企能員の変では仁田忠常とともに比企能員を暗殺した。 晩年は不遇だったと考えられ、1207年(建永2年)6月2日には、山木館襲撃以来の勲功11箇条をあげた文書を北条義時に提出して恩賞を要求している。 没年は不明。 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 |
天野遠景の墓がある場所は薬師の段と呼ばれ、かつては、遠景の念持仏・薬師如来を祀った薬師堂があったのだという。 薬師如来は、東昌寺の薬師堂に置かれている。 |
静岡県伊豆の国市天野537 伊豆箱根鉄道「伊豆長岡」駅から徒歩25分 「伊豆長岡駅』から伊豆箱根バスで「順天堂病院前」下車、徒歩5分 天野遠景の墓は、東昌寺南方の高台にある(下の地図参照)。 |
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