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足立遠元(あだちとおもと)は、武蔵国足立郡を本拠とした豪族。 父の藤原遠兼は京から武蔵国府の役人として下向した人物で、豊島康家の娘と結婚して遠元が誕生した(生誕年不明)。 母の実家の豊島氏は、 秩父氏の祖・秩父将恒の次男・武常が武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜ったことに始まる氏族。 遠元は、豊島氏をとおして足立郡司職を継承して足立氏を名乗ったのだと伝えられる。 頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されている頃から仕えていた安達盛長は、遠元の叔父にあたるのだというが定かではない(遠元の方が年上だったようだが・・・)。 『平治物語』によると、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝に従い、平重盛との待賢門の戦いでは源氏17騎の一人として活躍、六波羅攻めでは同郷の金子家忠の刀が折れると家来の太刀を家忠に与えるという美談を残している。 1180年(治承4年)、伊豆国で源頼朝が挙兵。 『吾妻鏡』によると、前々から参陣を命じられていた遠元は、10月2日、頼朝が武蔵国に入ると豊島清元・葛西清重らとともに参陣。 鎌倉入りを果たした後の10月8日、武蔵国足立郡を安堵された。 1184年(元暦元年)10月6日、幕府に公文所が設置されると大江広元が別当に任じられ、遠元は、中原親能・二階堂行政・中原秋家・藤原邦通らとともに寄人(よりゅうど)に任じられている。 1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で催された放生会に、源範頼・大内義信・加々美遠光・安田義定・伏見広綱・小山朝政・千葉常胤・三浦義澄・八田知家らとともに参列。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去。 1月20日には頼家が家督を相続するが、4月12日になると頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定される。 遠元もその一人に加わった。 1205年(元久2年)、武蔵国留守所惣検校職にあった畠山重忠が北条時政・義時父子に滅ぼされると、頼朝以来の武蔵国の運営体制は崩れ、北条氏の支配下に置かれた。 遠元が守ってきた足立郡司職も北条氏に移ったものと考えられている。 遠元がいつ没したかは不明だが、『吾妻鏡』の1207年(承元元年)3月3日の記録が最後となっている。 |
遠元は、公文所の寄人に任じられているとおり、軍事以外でも頼朝に認められ、京都からの重要な客人の席にも登場している。 1184(元暦元年)6月1日、頼朝が鎌倉に滞在していた平頼盛(池禅尼の子)の餞別の宴では、小山朝政・三浦義澄・結城朝光・下河辺行平・畠山重忠・橘公長・八田知家・後藤基清らとともに京都経験者として招かれた。 1186年(文治2年)1月8日、頼朝は、前年から鎌倉に下向していた一条能保(頼朝の姉妹坊門姫の夫)の餞別の儀を宿泊先の遠元の屋敷で行っている。 |
足立遠元の屋敷が足立郡の何処にあったのかは定かではないが、埼玉県には、その可能性のあるとされている地が数か所ある。 |
桶川市総合福祉センター地内には「伝足立右馬允遠元館跡」の石碑が建てられている。 |
さいたま市西区大字植田谷本の六部堂周辺が館跡と伝えられている。 |
足立神社には、足立館にあったとされる社も合祀されている。 |
足立という地名は、東征で負傷した日本武尊が夢告に従って氷川神社に詣でると立てるようになったという伝説が由来なのだという。 |
1891年(明治24年)に出版された『天野氏譜録』によると、天野遠景は、足立遠元の猶子となっていたのだという。 |
遠元の娘は、藤原光能、畠山重忠、北条時房に嫁している。 時房ではなく北条時政という説も・・・ |
菊の前は、畠山重忠の内室。 1205年(元久2年)、重忠が北条時政の謀略で討たれると自害したのだと伝えられている。 菊の前は遠元の娘と伝えられている。 |
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