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北条宗時は北条時政の嫡男。 北条政子の弟・北条義時の兄。 1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。 頼朝は山中へ逃れた。 『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。 しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだという。 大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓。 『吾妻鏡』によれば、1202年(建仁2年)6月1日、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の墳墓堂で追善供養を行っている。 |
※ | 宗時は政子の兄とする説があったが、近年では弟とする説が有力となっている。 |
北条宗時を討った小平井久重は、平井郷の住人。 頼朝が鎌倉に入った後、逐電していたが、1181年(治承5年)正月6日、工藤景光に捕らえられ、和田義盛に預けられた後、4月19日、腰越の浜で梟首されている。 |
石橋山の戦いで「早川」というと相模国の早川(小田原)を考えてしまうが、『吾妻鏡』の記録では、宗時は土肥から桑原を経て平井へと向かおうとしたときに討たれていることから、早川(はやかわ)とは函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説がある。 |
「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている「阿弥陀三尊像」(重要文化財)は、北条時政が宗時の慰霊のため、奈良仏師の実慶に造立させたものと伝えられている。 実慶は奈良興福寺を拠点に活動していた慶派仏師。 願成就院の諸像を造立した運慶と同時期に活動していたものと推測されている。 修禅寺の本尊大日如来も実慶の作。 |
工藤茂光は、伊豆国の牧之郷を領した武将。 工藤氏の本拠・狩野荘を引き継いだことから狩野茂光とも呼ばれる。 1156年(保元元年)の保元の乱で伊豆大島に流された源為朝を監視し、自立の動きをみせた為朝を加藤景廉・天野遠景とともに追討した。 1180年(治承4年)、石橋山の戦いで負傷し、歩けなくなったことから自害したと伝えられている。 一説には、肥満だった茂光は、足手まといになるの嫌い、孫の田代信綱に介錯してもらったともいわれる。 工藤一族 |
源頼朝相模国へ進軍〜従った武将は・・・) 頼朝を助けた者たち 北条時政の嫡男は誰だったのか?〜石橋山の戦いで討死した北条宗時は?〜 北条時政の不思議な行動〜石橋山の戦い後、時政は逃亡した?〜 |
高源寺 (函南町桑原) |
不動の滝 (函南町桑原) |
高源寺は、源頼朝が文覚と源氏再興の密議を行った寺と伝えられ、石橋山へ進軍する頼朝軍の「軍勢ぞろいの地」とも伝えられている。 不動の滝の横の石祠は「冷川不動」と呼ばれ、かつては、高源寺の塔頭「不動院」があった場所という。 |
静岡県田方郡函南町大竹 JR函南駅から徒歩15分 |
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