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『吾妻鏡』によると、1203年(建仁3年)9月15日、源頼朝の二男千幡(実朝)を征夷大将軍とする宣旨が届けられた(9月7日発布)。 同時に従五位下の位が授けられている。 |
『吾妻鏡』には、9月7日に二代将軍頼家が出家し、9月10日に 「千幡を三代将軍とすることが決定した」 とあるが、9月15日の記事では9月7日に将軍任命の宣旨が発布されていることが載せられていて、つじつまが合わない。 また、9月7日に将軍任命の宣旨が発布されているということは、それ以前に朝廷へその旨の申請をしていなければならないが、『吾妻鏡』にはその記事がない。 どういう事なのか??? 近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・ 「将軍頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、9月7日、朝廷は弟を征夷大将軍に任命し、実朝の名を与えた。 2日には頼家の子や比企能員が実朝もしくは北条氏によって討たれた」 ということが記されているらしい。 おそらく、『猪熊関白記』や『明月記』が伝えている流れが事実であって、北条時政が朝廷に 「頼家が死んだ」 という虚偽の申請をしていたため、はっきりと記載する事ができなかったのかもしれない。 |
『吾妻鏡』では、前将軍の頼家は9月7日に北条政子の命で出家したとされているが、慈円の『愚管抄』は、 「頼家は病気となったことで自ら出家して嫡子の一幡を後継者と決めていたが、それを知った時政が千幡こそ後継者だとして能員を呼び寄せ刺し殺した」 と伝えている。 『愚管抄』の記事と実朝の将軍宣下の申請との記事を併せて考えてみると、9月2日の比企能員暗殺の理由は『吾妻鏡』の作り話と考えることもできる。 |
時政と政子は、8月に頼家が重病となった時点で死を想定していたのかもしれない。 さらに、『愚管抄』が伝えるように「後継者は一幡」と決定されていたとすれば、時政と政子はそれが発表される前に策を講じる必要があったのかもしれない。 そうだとすると、当初の計画は、 @頼家の重病=死 A比企能員と一幡を殺害 B千幡の将軍就任 というものだったのではないだろうか。 ところが、頼家が奇跡的に快復してしまったことから、 @頼家の重病 A比企能員と一幡を殺害 B頼家の快復 C実朝の将軍就任 D頼家の幽閉 E頼家の暗殺 という流れになってしまったのかもしれない。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜 北条政子の配慮で出家した源頼家 |
比企一族の墓 (妙本寺) |
一幡の袖塚 (妙本寺) |
源頼家の墓 (修禅寺) |
指月殿 (修禅寺) |
『吾妻鏡』によると、1203年(建仁3年)10月8日、千幡(12歳)の元服式が北条時政の名越邸で行われている。 大江広元・小山朝政・安達景盛・和田義盛・中条家長を始めとする御家人100人以上が出席。 雑具類は北条義時と大江親広(源親広)が持参。 理髪役は北条時政、加冠役は大内義信。 その後の給仕役は、義時と親広。 結城朝光・和田常盛・和田重茂・東重胤・波多野経朝・桜井光高が膳を運び、佐々木広綱・千葉常秀らが鎧・太刀・馬を献上する役を果たしている。 この日から千幡は「実朝」と名乗ったのかと思われるが、『猪隈関白記』には、9月7日、後鳥羽上皇によって「実朝」という名が定められたことが記されているらしい。 |
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