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「こむとしも たのめぬうはの 空にたに 秋かせふけば 雁はきにけり」 「いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁はきにけり」 源実朝が東重胤に早く帰参するよう催促するために詠んだ歌。 東重胤(とうしげたね)は、千葉氏の一族・東胤頼の子(千葉常胤の孫)。 梶原景時の変では連判状に名を連ね、比企能員の変・畠山重忠の乱に出陣している。 和歌に優れ、源実朝の寵愛を受けた武将。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1206年(建永元年)11月18日、重胤は実朝の勘気を蒙り籠居することに。 その理由は・・・ この年、重胤は突然に休暇をとって下総国へ帰ってしまい、数か月も出仕しなかった。 そのため、実朝が重胤に和歌を送って出仕を催促したが、それでもなかなか帰参しなかったから・・・ 翌12月23日、重胤は、事の次第を北条義時に相談。 義時は、 「そのようなことは長く続くことではありませんし、仕えている者であればよくあることです。 和歌を献じれば機嫌も直るでしょう」 と助言。 すると、重胤はさっそく一首の和歌を詠んだ。 感心した義時は重胤を連れて御所へ赴き、重胤の詠んだ和歌を実朝も前に置いて、 「重胤が悲しんでおりました」 と申し上げると、実朝はその和歌を三度も詠じて、門の外にいた重胤を呼び寄せて、田舎の冬の景色などを尋ねたのだとか。 勘気を解かれた重胤は、引き下がる義時に手を合わせて感謝し、子々孫々まで仕えることを誓ったのだという。 |
その後、重胤は・・・ 1208年(承元2年)閏4月27日、実朝の推薦もあって滝口武者(たきぐちのむしゃ)として上洛。 10月21日に帰参し、熊谷直実が9月14日に予告したとおりに東山の庵で念仏を唱えながら往生した事などを報告している。 |
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