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熊谷直実は、武蔵国熊谷郷を本拠とした武将。 1156年(保元元年)の保元の乱、1159年(平治元年)の平治の乱では源義朝に従ったが、平治の乱で義朝が平清盛に敗れた後は、平家に仕えていた。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵。 石橋山の戦いでは平家方に付いていたが、間もなく頼朝のもとに参陣し、佐竹征伐で手柄を挙げた。 1184年(寿永3年)の木曽義仲追討では源範頼に従い、続く一ノ谷の戦いでは、源義経の奇襲部隊に属して平敦盛を討ち取る活躍をした。 もともと直情型だったという直実。 1187年(文治3年)には、鶴岡八幡宮で催される流鏑馬の的立て役を命じられるが、これを拒否して所領の一部を没収されている。 没収された地は、鶴岡八幡宮に寄付された。 1192年(建久3年)には、武蔵国熊谷と久下との境界の訴訟では、口下手でうまく質問に答られない苛立ちから、刀を抜いて髻を切って逐電してしまったのだという。 その後、法然の弟子となって蓮生(れんせい)と名乗った。 1208年(承元2年)9月14日、死去(『吾妻鏡』)。 |
流鏑馬と熊谷直実の逸話 熊谷直実と久下直光の境界争いの裁判 (逐電騒ぎを起こした熊谷直実) |
直実が出家した時期については、『吾妻鏡』の記録から逐電騒ぎを起こした1192年(建久3年)以降と考えられてきたが、近年では、1191年(建久2年)3月1日付の「建久弐年参月一日僧蓮生譲状」から、それ以前には出家していたものと考えられている。 |
『吾妻鏡』によると直実が死去したのは1208年(承元2年)9月14日だが、近年では『法然上人行状図画』に記述されている1207年(建永2年)9月4日が支持されている。 |
金戒光明寺は、直実が出家した寺と伝えられる。 |
よろい掛け松 (金戒光明寺) |
熊谷直実の墓 (金戒光明寺) |
光明寺は、直実が建立した念仏三昧院を始まりとする寺。 |
法然寺は、直実が錦小路東洞院西に創建したのを始まりとする寺。 |
烏寺には、直実の大往生を知らせた鳩の伝説が残されている。 |
知恩院は、法然が開いた浄土宗の総本山。 |
須磨寺の源平の庭は、平敦盛と直実の一騎討ちの場面を再現した庭。 『平家物語』によれば・・・ 一の谷の戦いで直実は、我が子と同じくらいの年齢の若者・敦盛を討ち取った。 この事に無常観を感じて出家を考えるようになったのだとか・・・ のちに法然のもとで出家した直実は、人の世の儚さを 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」 と詠んだのだという。 |
唱歌『青葉の笛』〜平敦盛と平忠度の最期〜 |
敦盛塚 (胴塚) |
敦盛塚 (首塚) |
須磨寺の塔頭蓮生院の名は、直実の法号「蓮生」に因む。 |
直実は「行住坐臥、西方に背を向けず」という言葉を深く信じていたのだとか・・・。 |
熊谷寺は直実が往生した地とされている。 |
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