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熊谷直実と久下直光の
境界争いの裁判

編集:yoritomo-japan.com








 『吾妻鏡』によると・・・

 武蔵国の熊谷郷と久下郷の境界をめぐって、年中縄張り争いをしていた熊谷直実と久下直光。

 二人は縁戚で、直実の姨母(母の姉妹)は 、直光の妻。

 その関係から、直実は直光の代理として、大番役を勤めたことがあった。

 その時、京都には同じように大番役として上京していた武蔵国の同輩らがいたが、直実はその連中に「代官」と馬鹿にされてしまう。

 その鬱憤を晴らそうと、平知盛に仕えて何年かを過ごししたのだという。

 直光から離れて平知盛の家人になったことが、年来の恨みにつながったのだとか・・・ 





〜髻を切って逐電した直実〜

 1192年(建久3年)11月25日、熊谷直実と久下直光は、源頼朝の前で境界争いの裁判を行うため、問注所に出頭。

 しかし・・・

 口べたで頼朝の質問に上手に答えることができない直実は、憤怒して書類を投げ捨てて座を立ってしまう。

 さらに、西の侍所で刀を抜いて髻を切り、私宅へも帰らず逐電してしまった。

 あっけにとられた頼朝。

 すぐに相模国や伊豆国と、箱根山(箱根神社)・伊豆山(伊豆山神社)へ雑色を走らせ、直実の隠棲を止めるように伝えさせたのだという。


問注所跡
リンクボタン問注所跡

 問注所は、鎌倉幕府の裁判機関。

 源頼朝の御所内(大倉幕府)にあったが、この事件があってからの裁判は、執事の三善康信の屋敷で行うこととなった。





〜上洛を止められた直実〜

 12月11日、伊豆山の専光房良暹の使いが鎌倉に到着。

 逐電した直実は、僧侶の姿になって京都へ向かっていたのだという。

 はじめは引き留めても承知しなかったが、庵に誘って浄土宗について語ると怒りが収まってきたのだとか。

 そして、良暹は、遁世逐電を諫める書状を書いたのだという。

 12月29日には、直実が上洛を諦めたという報告が届けられている。


伊豆山神社
リンクボタン伊豆山神社
(熱海)
箱根神社
リンクボタン箱根神社
(箱根町)

 伊豆山神社箱根神社は、頼朝が伊豆国の流人の頃から崇敬していた社。

 この二社と三嶋大社を参詣する二所詣は、鎌倉幕府の公式行事となっていた。


伊豆箱根の二所詣





〜直実の出家の時期

 直実が出家した時期については、『吾妻鏡』の記録から逐電騒ぎを起こした1192年(建久3年)以降と考えられてきたが、近年では、1191年(建久2年)3月1日付の「建久弐年参月一日僧蓮生譲状」から、それ以前には出家していたものと考えられている。









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