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1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍源頼家の容態が悪化したため、以下の譲与が発表された。 |
○ | 関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝) |
○ | 関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡(頼家の子) |
『吾妻鏡』によれば・・・ 1203年(建仁3年)7月20日、源頼家が急病に。 23日には、病状が重いため祈祷も行われたが、占いによると「霊神の祟り」とのこと。 以後、『吾妻鏡』には、度々頼家の容態が思わしくないことが記され、この日の沙汰となった。 |
富士の人穴探検〜源頼家と仁田忠常〜 浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜 |
この沙汰に対して激怒したのが、一幡の外祖父で、頼家の乳母夫を務めた比企能員。 ※一幡の母は能員の娘若狭局 源頼朝の乳母を務めた比企尼の養子で、頼朝からの信任も厚かった能員は、将軍家外戚として権勢をふるっていた。 『吾妻鏡』の9月2日条によれば・・・ 能員は、娘若狭局を通じて病床の頼家に次のように伝えた。 「地頭職を弟の千幡にも譲るということは、権威が二つに分かれ、権力争いになることは疑いのないこと。 子(一幡)と弟(千幡)のことを考え、おだやかに計らったようだが、かえって国の乱れの基となる。 しかも、一幡の家督は、北条時政に奪われてしまうだろうから、時政を追討すべきだ」 これに驚いた頼家は、能員を病床に招いて、北条時政追討の許可を与えたのだが・・・ この密談を北条政子が障子の陰から聞いていて、時政に通報。 能員の企てを知った時政は先手をうって、能員を自邸に招きだして暗殺。 そして、北条義時らによって比企討伐が行われた。 比企一族は、一幡の小御所に立て籠もって防戦したが、やがて屋敷に火をかけ、一幡を囲んで自害した(比企能員の変)。 その後、頼家は・・・ 伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。 |
北条政子の配慮で出家した源頼家 兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝 慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
比企一族の墓 (妙本寺) |
一幡の袖塚 (妙本寺) |
妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。 |
修善寺温泉の入口に鎮座する横瀬八幡神社は、相殿に源頼家を祀る。 |
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