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新釈迦堂は、二代将軍源頼家の娘鞠子(竹御所)の遺言によって建立され、鞠子はそこに葬られたと伝えられている。 もともとは、鞠子の館(竹の御所)があった場所とされ、妙本寺の祖師堂の北方の高台にあった。 新釈迦堂には、陳和卿の作と伝わる釈迦如来立像及び坐像と四菩薩像が安置されていたという。 現在は新釈迦堂はなく、墓石が残されているのみである。 |
『吾妻鏡』の1228年(安貞2年)7月16日の条に、「松童社のかたわらから火事が起こり・・・竹御所は延焼を免れた」とする記述がある。 松童社というのは八雲神社のことであると考えられている。 |
新釈迦堂は、江戸時代に祖師堂のすぐ左側に移築されたようだが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在は霊宝殿が建てられている。 霊宝殿には、陳和卿作と伝わる釈迦如来立像が安置されている。 |
鞠子(竹御所)は、1202年(建仁2年)、源頼家と若狭局(比企能員の娘)との間に誕生した。 1203年(建仁3年)9月2日に起こった比企氏の乱で、母の若狭局は比企一族とともに比企ヶ谷で最期を遂げ、父頼家は出家させられて伊豆修禅寺に流された後、翌年北条氏によって暗殺されている。 比企氏の乱で焼け死んだ一幡は同母兄。 |
比企氏の乱後、北条政子の庇護をうけて育った鞠子は、1216年(建保4年)、三代将軍源実朝(叔父)の猶子となった。 1219年(承久元年)、異母兄の公暁が実朝を暗殺し、公暁も三浦義村によって討たれると、鞠子は源頼朝の血筋をひく唯一の人物となった。 |
1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると、政子の葬儀や仏事を中心となって行い、政子の後継者であることを印象づけ、御家人からの尊崇を集めるようになる。 1230年(寛喜2年)、28歳で四代将軍藤原(九条)頼経の妻となり、頼朝の血をひく御台所が誕生したが・・・ 1234年(天福2年)7月27日、男子を死産し、鞠子も命を落とした。 『北条九代記』は・・・ 7月26日、鞠子は、お産のため相模守時房邸に入り、27日の明け方(午前4時頃)にお産するが、産まれたのは死んだ胎児だった。 その後、鞠子は心身を悩まし、意識を失い、午前8時ころに息を引き取ったと伝えている(32歳)。 頼朝の子・孫:断絶した血筋 |
※ | 鞠子(竹御所)の母については、源義仲の娘とする説もある。 |
妙本寺の寺伝では、鞠子は「よし子」となっているようである(「よし」は「女」偏に「美」と書く)。 死没も9月27日としている。 |
鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経(okadoのブログ) |
新釈迦堂跡に残されている「やぐら」は、「佐竹やぐら」と呼ばれ、ここで佐竹与義(上総介入道常元)主従13名が自刃したとされている。 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員邸の跡地に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
鎌倉市大町1−15−1 0467(22)0777 鎌倉駅東口から徒歩8分 |
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