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「佐竹やぐら」は、妙本寺の「新釈迦堂跡」に残されている「やぐら」。 1422年(応永29年)、この「やぐら」の中で、佐竹与義(上総介入道常元)主従13名が自刃したとされている(参考:大寶寺 蛇苦止堂と蛇苦止ノ井(蛇形井))。 佐竹与義は京都扶持衆で、鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻した人物。 入道して常元と名乗っていた。 |
佐竹氏第十一代当主の佐竹義盛は、子に恵まれなかったことから、関東管領上杉憲定の次男義人(義憲)を養子とし、義盛の死後、義人が佐竹宗家を継いだ。 この事に不満を抱いたのが佐竹一門の佐竹(山入)与義。 与義は、1416年(応永23年)に起こった上杉禅秀の乱で禅秀に味方し、鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻すとともに、持氏に従っていた義人を攻撃した。 その後も持氏に対して執拗な抵抗を続けていた与義だったが、1422年(応永29年)、持氏の命をうけた上杉憲直によって佐竹屋敷が攻撃されると、裏山を越え比企ヶ谷に逃げ込み、法華堂で自刃したと伝えられている(参考:大寶寺)。 ※与義が自刃した法華堂とは新釈迦堂のことであると考えられている。 |
新釈迦堂跡 |
大寶寺 |
佐竹与義が自刃する際、火がかけられたため、住職の日行は、日蓮の描いた曼荼羅を持ち出し、蛇苦止堂の井戸に隠そうとしたところ、蛇が現れ、空には雲が起こって大雨を降らせ、火を消したと伝えられている。 |
妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員の邸跡に能員の末子能本が建てた寺。 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。 |
鎌倉市大町1−15−1 0467(22)0777 鎌倉駅東口から徒歩8分 |
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