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室町時代、鎌倉には鎌倉公方が置かれ、初代足利基氏の補佐役として上杉憲顕と高師冬が付けられたが、観応の擾乱によって高氏が没落すると、上杉氏が関東管領として鎌倉公方を補佐し、その地位を世襲していた。 足利持氏が鎌倉公方となると犬懸家の上杉禅秀(氏憲)が関東管領に就任したが、持氏と禅秀が対立し、持氏は禅秀を罷免して山内家の上杉憲基を関東管領とした。 憤慨した禅秀は、1416年(応永23年)、足利満隆(二代鎌倉公方氏満の子)とその養子持仲(持氏の弟)とともに持氏から実権を奪うことを計画し、満隆と持仲が西御門の保寿院で挙兵した。 禅秀は、持氏に悟られぬよう周到に事を運んだため、油断していた持氏は禅秀の挙兵を知ると御所を脱出し、十二所から山を越えて小坪に至り、海岸沿いに佐助ヶ谷の上杉憲基邸に逃れたという。 その後、鎌倉は禅秀の制圧下に置かれ、持氏は駿河の今川範政を頼って鎌倉を脱出した。 その後、今川氏が持氏を擁したということで、将軍義持も禅秀討伐の御教書を発したため、大勢が逆転。 禅秀から多くの武士団が離れて行った。 |
1417年(応永24年)、持氏を擁した今川範政が鎌倉に軍を進めると、禅秀らは鶴岡八幡宮の僧坊(二十五坊の別当坊)に籠もり自刃した。 この禅秀の反乱によって犬懸上杉家は没落した。 |
上杉禅秀の乱によって、上杉憲基邸のあった佐助ヶ谷は戦火に巻き込まれ、憲基が建立した国清寺が焼失している。 |
藤沢の遊行寺に残されている敵御方供養塔。 上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するために1419年(応永25年)に建立された。 |
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