源頼家の嫡子一幡と嫡子のはずだった公暁 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼家の正室は辻殿(つじどの)。 辻殿は、三河源氏・賀茂重長の娘で、源為朝の孫娘。 側室には比企能員の娘若狭局がいた。 長子は一幡(若狭局が産んだ子)。 次男は善哉(公暁:辻殿が産んだ子)。 嫡子はどちらなのか? 嫡子とは嫡室(正妻)が産んだ子のこと。 そうなると、公暁が嫡子ということになる。 しかし、頼家は一幡を嫡子として扱った。 乳母夫であり重用していた比企能員の娘が産んだ子だからなのかもしれない。 |
頼家の正室を辻殿と決めたのは源頼朝だと考えられ、頼朝の中では辻殿が産んだ子を嫡孫とする構想があったものと思われるが・・・ 公暁が誕生したのは頼朝の死後のことだった。 頼朝が生きている間に誕生していれば、嫡子として育てられたのかもしれない。 |
※ | 『吾妻鏡』は、頼家の正室を辻殿としているが、様々な説がありはっきりとしない。 |
1203年(建仁3年)の比企能員の変で、比企一族とともに一幡が滅亡。 頼家も翌年、幽閉されていた修禅寺で暗殺される。 その後、本来であれば嫡子のはずだった公暁は、微妙な立場のまま成長。 北条政子の援けもあって、園城寺で修行した後、鶴岡八幡宮の別当に就任するのだが・・・ 1219年(建保7年)1月27日、叔父の源実朝を暗殺。 その日のうちに、三浦義村に誅殺された。 |
比企邸跡に建てられた妙本寺には、焼け跡から出てきたという一幡の袖が祀る袖塚がある。 |
実朝の首を持って三浦義村邸へ向かった公暁が通った道といわれる。 |
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